「なんでうちの研究室を選んだの?」と、学生に聞いたことがあります。
学生たちの答えは、
「研究テーマがとても面白そうだった」という建前から、
「研究室の場所が家から近かった」などの本音まで、さまざまでした。
そんな理由の中に、
「研究室見学に行ったとき、先輩たちが楽しそうに研究の話をしてたから」というのがあって、あーわかるなぁと思いました。
学生にかぎらず、楽しそうに研究の話をしてる人たちを見ると、いつも良いなぁと思います。
そんな人たちと一緒に研究したいと、私も思います。
いま私がいる研究室には、毎年3人の学生が入ってきます。
むかし私が卒業した研究室は、毎年ひとり入ってくるかどうかでしたので、それと比べると大きな研究室です。
同期が二人もいる彼らは、わからないことがあっても、わからないなりにアーデモナイ、コーデモナイと楽しそうに話をしています。
同期がひとりもいなかった私には、それが少しうらやましい。
私が研究の話を楽しくできるようになったのは、研究室に入ってからずいぶん時間が経ったあとでした。
当時の私は、先生や先輩たちが面白そうに話をしていても、その輪にうまく入っていけなかった。
その話のどこが面白いのか、わからなかったからです。
研究の面白さがわからないなんて、私には研究のセンスがないのかもしれないと思いました。
誰かと楽しく研究の話ができることは、研究を続けていくためにとても大切なことだと、いまは思います。
「世界を知るのは、誰かと分かち合いたいからだ」と末黒野花ちゃんが言っていました。
好奇心というのは、誰かとつながっているからこそ生まれるのでしょう。
でも昔の私のように、誰ともうまく研究の話ができなかったら、どうすれば良いのでしょうか。
そのままだといずれ好奇心を失って、いったい何のために研究をしているのかわからなくなるかもしれません。
ここで少し昔を思い出して、考えてみたいと思います。
* * *
大学の研究室に入ったころ、私は楽しそうに研究の話をする先輩たちに憧れました。
当時の先輩たちの会話を、今でも脳内再生できるほどです。
A先輩「みてみて。式をいろいろいじってたら、こんなキレイな式が出てきたんだけど」
B先輩「おぉ!これはキレイだね……ここの項ってどこから出てくるの?」
A先輩「あぁ、この関係式を使った(ドヤ)」
B先輩「へぇ、この項が残るのかぁ」
A先輩「そうそう、それでさ……(永遠につづく)」
そんな先輩たちの会話を横目で聞きながら、そのとき私は、
「(うわっ、数式がキレイとか言う人マジでいるんだ……ひくわー)」と思ってました。
ウソです、ごめんなさい。
本当はうらやましくて、うらやましくて仕方がありませんでした。
言いたい! 私も誰かに数式を見せられて、「この数式はエレガントだね」って言いたい! そう強く思いました。
さっそく、数式の美しさを理解しようと、家に帰って『博士の愛した数式 (新潮文庫)』を読み直しました。
泣きました。
時計を見ると午前2時53分でしたので、
「253……すばらしい。じつに美しい数字だ」と言ってみました。
部屋には私ひとりでした。
私は大丈夫ですか?
それからというもの、私は研究室で誰かが数式を見せにくるのを待っていました。
しかし、いっこうに誰も私のところには来ません。
仕方がないので、「まぁ先生でもいいか」と思って教授室に行きました。
しかし先生のプレッシャーは思いのほか強く、
「エレガントな式ですね、先生」
なんて言う余裕はありませんでした。
私が冷や汗をかきながら、なんとか先生の話を理解しようとする一方、先生はじつに愉快に研究の話をしていました。
私には先生の話の何が面白いのか、いっこうにわかりませんでした。
どうしてこうなったのでしょう。
ついでに言うと、数式の美しさというのも、正直のところ私にはよくわかっていませんでした。
面白いものを面白いと感じるセンスが、自分には無いような気がしました。
それが私には、とてもくやしかった。
* * *
ある日、私はついに先輩に白状しました。
「数式の美しさが、私にはよくわかりません」と。
すると先輩は、
「僕も前はよくわからなかった」と言い、本を一冊貸してくれました。
『数学ガール/フェルマーの最終定理』という本で、美しい数式の意味がとても丁寧に書いてありました。
その本を読んだおかげで、先輩の言葉の意味が少しわかるようになりました。
味をしめた私は、また先輩に、
「先生の話についていけない」と相談しました。
「先生の昔の論文を読んでみるといいよ」と、先輩は教えてくれました。
論文には、先生が言っていたことがとても詳しく説明されていました。
「ここまで詳しく書いてくれれば、さすがに私でも何がすごいのかわかるわ」という感じです。
そして私は気がつきました。
研究を面白いと感じるために必要なのは、センスではなく知識であると。
先輩も、たぶん先生も、研究を面白く感じるまでには、たくさんのことを知る必要があったんだと思いました。
そして私は、先輩たちが学んだことを一つ一つ知っていくことで、研究の話の面白さが少しずつわかるようになりました。
行間が読めるというか、言葉の背後にあるストーリーがわかるようになったのです。
たとえば、私が友達に、
「本屋さんにレモンが置いてあった」と、面白そうに言われたとします。
もし私が何も知らなければ、
「いったい何がおもしれぇんだ? オラさっぱりわからねぇゾ」ということになるでしょう。
しかし、もし私が梶井基次郎の『檸檬』を知っていれば、
「へぇ、そいつぁおもしれぇや! 粋な本屋だねぇ」と、ともに笑い合って友情が深まるに違いありません。
すみません、ちょっと私のキャラが迷走して、たとえがわかりにくくなりましたが、
まとめます。
研究の話をするのは、ふつうとても楽しいです。
できればずっとやっていたいくらい。
でも、ときに相手の話の面白さがわからなくて、困ることもあるかもしれません。
そんなとき、自分のセンスのなさを嘆くのではなく、自分がまだ知らない面白いことがあるのだと思って、聞いたり調べたりしてみてほしいのです。
きっとハッとするようなことに出会うと思います。
そしてできれば、そのことを相手にも伝えてほしい。
「面白かった」と。
するとお互いに同じことを知っているという信頼感ができて、ときどき議論をとても深いところまで導いてくれます。
なかなか気軽に話がしづらい昨今、
「ただ思いっきり研究の話がしたい!」と、強く思うときがあります。
誰かと楽しく研究の話ができるのはすばらしいことだったと、私はいまさら気がつきました。