ポスドク10年の先輩と就活

学生の女の子「就活とかしなかったんですか?」

僕「就活はしなかった。普通はするのかもしれない」

「でも逆に怖くないのだろうか。好きな研究ができなくなることが」

「あんなに楽しそうに研究しているから、分かってくれる気がした」

 

 

ポスドク2年目のある日、転職会社に行った。

 

友達がポスドクをやめて、結婚した。

結婚かあ、きっと幸せなんだろうな。

そう思って僕は、「ポスドク 転職」で検索した。

 

転職会社の担当者は、

「今より年収が下がることはないです」と言った。

テーブルの上に、求人情報が印刷された紙がならんでいる。

 

医薬品メーカー研究職/年収650〜万円、

シンクタンク研究員/年収850〜万円、

サイエンスライター/年収550〜万円、

……

 

「意外と求人あるんですね」と、僕は言った。

「そうですね。ただ、すぐにでも転職を考えられた方がいいと思います。やはり年齢が上がってくると、求人はどんどん減ってきますので」と、彼は言う。

「そうなんですね」

「はい、大学で教授になるのも大変でしょう。下手したら、ずっとポスドクを続けなきゃいけない。それはつらいですよね?」

 

そう聞かれて、僕は答えられなかった。

それは、つらいのだろうか?

僕には10年くらいポスドクを続けている先輩がいる。

 

「ポスドク用の職務経歴書がありますので、次回までにご記入いただけますか?」と、彼は言う。

「わかりました」と僕は言って、その日の面談は終わった。

 

転職会社のビルを出ると、すっかり夜になっていた。

僕は大学に戻ろうと、駅に向かった。

都心の街は、イルミネーションでキラキラしている。

歩きながら、先輩のことを考えた。

 

僕は、やっぱり転職するのはもうちょっと先でいいか、と思った。

 

 

ポスドク10年の先輩

 

スズキさんに会ったのは、僕が大学院を卒業する少し前、ポスドクの採用面接を受けに行ったときだった。

 

あの日はとても緊張していた。

研究所に入るのは初めてだった。

すごく静かなところだな、と思ったのを憶えている。

学生の姿はなくて、会う人はみんな僕より年上だった。外国の人が多い。

 

ミーティングルームに通され、そこで僕は研究発表をした。

発表したというより、質問にひたすら答えた、という方が近い気もする。

 

そのあと先生と少し話をして、僕の面接は終わった。

「せっかくだから、他の人たちとも少し話をしていって」

先生がそう言って、研究室の人たちがそれぞれ研究の話を聞かせてくれた。

 

僕は笑顔でうなずきながら、ずっと思っていた。うんうん、なるほど。

どうしよう、ほとんどわからん。

 

僕はなんとか微妙なあいづちをくりだして乗りきっていった。

オーイエス、アーハァン? ザッツグレイト、センキュー。

 

そんな中、ようやく会えた日本人のポスドクがスズキさんだった。

「ボクの研究はまぁ、アレみたいな感じっす」と、彼は意外に軽いノリで説明してくれた。

細かい話はせず、みんな知ってるような例を使って、だいたいどんな研究か教えてくれた。

とても助かった。

 

すっかり安心していた僕に、とつぜん彼は言った。

「ところで他の人の話、わかりました?」

 

しまった、バレていたのか……?

一瞬、彼の口を封じるべきか迷った。

 

「正直、あんまりわかりませんでした」と、僕は降参した。

すると彼は、

「あ、ぜんぜん大丈夫っす。ボクもよくわかってないんで」と笑った。

そんなことを言いながらも彼は、あの人はたぶんこういう研究をしてて〜、と他の人の研究を簡単に教えてくれた。

 

研究の話を、ほんとに面白そうにする人だった。

 

 

なんで助教にならないのか

 

スズキさんが10年以上ポスドクをやっていると知ったのは、僕が採用されて数カ月たったあとだった。

 

スズキさんの昔の論文を探していて気がついた。

研究室のウェブサイトに、彼の山のような業績リストがのっていた。

 

それを見て、僕はとても怖くなった。

これだけの業績があっても、助教にはなれないのか、と。

そうだとしたら、僕はいったいどうしたらいいのだろうか。

 

不安でたまらなくて、そばにいた同僚に聞いてみた。それとなく。

「ねえ、見てよ。スズキさんってすごいね。なんでもっといいポジションに就かないんだろう?」

「さあね。彼はそういうのには、あまり興味がないみたいだよ」

 

同僚の言葉を聞いて、僕は少し安心した。

スズキさんがポスドクを続けている理由は、どうやら業績が足りないから、というよりは、彼の考えによるものらしい。

それがどういう考えなのかは聞けないまま、僕は別の研究室に移ってしまったけれど。

 

僕が異動になる前、研究室で助教を公募することになった。

もちろん僕は応募した。

こんなチャンスはめったにないと思った。

でも研究室のポスドクも、皆たぶん応募する。

業績からいって、採用されるのはスズキさんだろう。

僕はそう思っていた。

 

採用されたのは、同僚の外国人だった。

それを先生から聞いたとき、

「スズキさんになると思ってました」と、僕は言った。

先生は、

「彼は応募しなかったんだ」と言った。

 

そのとき、ああ、スズキさんは本当に助教になるつもりがないんだな、と僕は思った。

 

 

「ずっとポスドクはつらいですよね?」

 

スズキさんがなんで助教にならないのか、僕にはなんとなく想像できる。

僕だけじゃなくて、大学で研究してる人ならたぶん皆わかるんじゃないだろうか。

 

僕の好きな本に、大学教員になった主人公の思いが書かれている。

 

 僕は、どうだろう?

 最近、研究をしているだろうか?

 勉強しているだろうか?

 そんな時間が、どこにあるだろう?

 子供も大きくなり、日曜日は家族サービスで潰れてしまう。大学にいたって、つまらない雑事ばかりが押し寄せる。人事のこと、報告書のこと、カリキュラムのこと、入学試験のこと、大学改革のこと、選挙、委員会、会議、会議、そして、書類、書類、書類……。

 いつから、僕は研究者を辞めたのだろう?

 帰宅する途中、坂道を上りながら、僕は夜空を見上げるようになった。街の明かりがぼんやりと周辺を霞ませていて、星はか弱く高いところにしか見えない。

 ずっと、空なんか見なかった。

 自分のこと、研究のことで頭がいっぱいだった。

 

森博嗣『喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr.Kishima (講談社文庫)』p. 340

 

スズキさんは、もう20年くらい大学にいることになる。

僕の倍以上、いろんなことを見てきたはずだ。

 

たぶん、ポスドクが一番いいと思っているのだろう。

彼は、いつも夕方ごろに研究室に来て、朝早く帰るという生活をしていた。

そんな生活の楽しさは、僕にもよくわかる。

 

そろそろ休憩しようと思うと、真夜中になっているんだ。

研究室には誰もいない。

コーヒーメーカーに粉を入れて、スイッチを押す。

コポコポとお湯が注がれる音を聴きながら、壁いっぱいにならんだ本を眺める。

本をめくりながらコーヒーを飲むのが好きだ。

今日はどの本にしようかと、誰もいない部屋でぼんやり考えるとき、体がじんわりと温かくなる。

流れる血が、きらきら光りだすような気がしてくる。

たぶんこれが幸せってことじゃないか、と思う。

 

大学や研究分野によるだろうけど、助教になってしまえば、たぶんそんな生活はできない。

スズキさんは、それがなにより嫌だったんじゃないだろうか。

 

 

 

ずっとポスドクを続けることは、つらいことなんだろうか?

 

僕には、そうは思えない。

 

むしろできるなら、このままずっと研究だけしていたい。

他のことは、何も考えたくない。

 

これまで、そんなのは現実逃避した、なまけ者の考え方だと思っていた。

そんなことをしていたら、いずれ就職先がなくなってしまう、と。

 

でも今は、それもいいと思う。

少なくともそれまでは、研究者でいられる。

それ以上に大事なことなんて、僕には無いんじゃないだろうか。

そういう生き方をしたっていいんだと、僕はスズキさんを見て思えた。