先生って呼ぶのは無しで

4コマ「先生の呼び方」

 

先生は「先生」って呼ばれるのをきらってた。

私はそれを、先生の照れだと思ってた。

「先生なんてガラじゃない。フランクにいきましょう」みたいな。

 

でも私からしたら、それは逆にやりにくい。

大学にいるかぎり、先生は先生で、私は学生だ。

「先生」って呼ぶほうがお互いの役割がはっきりしてていい。

そう思った。

 

でもそれは私の間違いだったと、今になって思う。

 

 

先生って呼ぶのは無しで

 

大学4年の春、私は研究室に配属された。

いま考えると、小さな研究室だった。

先生は教授ひとりで、准教授や助教はいなくて、秘書さんもいなかった。

学生は毎年ひとり入ってくるかどうか。

 

研究室は薄暗い廊下の一番奥にあって、部屋の前に貼ってあるポスターを見ても、いったい何の研究室なのかよくわからなかった。

配属先の研究室を選ぶとき、友達に相談したら「あそこはやめとけよ」と言われた

そんな研究室にその年、私はひとりで入っていった。

 

研究室メンバーの顔合わせのとき、先生が私に言った。

「“先生”って言うのは無しで。“さん”で呼んでください」

「先生と生徒、というより、一緒に研究する仲間という感じにしたい」

 

大学の先生をいきなり“さん”で呼べと言われても、と私はとまどった。

いや、ネコかぶるのはやめます。

「仲間ってなんだよ」と私は思った。

 

だって私は授業料を払ってて(奨学金で)、先生は給料をもらってる。

先生は私に研究を教えるのが仕事だ。

そして学生の私に、先生になにか教えることができるなんて、本気で思ってるんだろうか。

「仲間としてお互い学び合いましょう」なんてキレイごとだと、私は思った。

 

とりあえずその日から先生をさん付けで呼んだけど、先生のことを仲間だなんて思えなかった。

研究で行き詰まったらすぐ先生に相談したし、先生のアドバイス通りに作業を進めた。

 

一緒に研究しているというより、先生の研究を私が手伝っているという感覚。

それでも私は満足してた。

研究は問題なく進んでいくし、研究ができること自体が楽しかった。

 

そんな私に先生は、

「僕が言うことが正しいとはかぎらない」とよく言った。

でも実際、先生の言うことはいつも最善策だった。

どうしてわざわざ私が不安になるようなことを言うのか、私にはわからなかった。

 

 

「教わる」から「学ぶ」へ

 

あのころ私は、必要なことは先生が教えてくれると思ってた。

それが間違いだった。

 

たしかに先生はいろんなことを教えてくれた。

何が問題で、どんなやり方で解決できそうか、とか。

 

でもそれは先生の問題で、先生のやり方だった。

言われたままやったって、私の問題は解決しない。

 

私の問題ってなんだ?

それがわからないと、私は何も学べない。

私は先生がいないと何もできないままか、先生の劣化コピーになるだけだ。

「学び」は先生から降ってくるものじゃなかった。  

 

気づいた、学んだ、という言葉には「誰が」という主語が必要になってきます。

 

私は気づいた、学んだ、と言えば発言の主体が明確になるのにそう言わず、「気づきを得ました」「学びがありました」とわざわざ言う。

日常的に学んだり気づいたりしている人は決して使わない言葉なのですが、普段、学ばないひとや気づかない人がカルチャーセンターやセミナーなどに行くと激しく勉強した気分になるのか、なぜか必ずこれを言います。

 

誰かがこれらの言葉を「宗教用語の文法である」と解説していたことがあり、なるほどと長年の謎が解けました。

 

赦し、救い、癒やし、など、天にいる神から降ってきた結果として扱うことで直接的な関与を避けているわけです。

 

(ワタナベアニ『ロバート・ツルッパゲとの対話』p.162)

 

先生から知識とか学びを与えてもらうんじゃなくて、自分で学べるようになることが大学に行く意味だと、今の私は思う。

そのために授業料を払ってるんだろう。

スポーツジムみたいな感じだ。お金を払うだけじゃ何も変わらない。

 

だから先生は上から教えるんじゃなくて、私が自分で学ぶのを支えようとしてたんだと思う。

先生と学生の関係は、高校までの上下関係じゃなくて、大学からは仲間みたいな横の関係のほうがいい、と。

 

このまえ新聞を読んでて、これが先生の考えてたことかもしれないと思った。

わたしは他人との間に「権力的」な上下関係が介入することが何より苦手、というかそれに強い嫌悪感を覚えるたちである。

 

人から威張られるのは嫌いだし、自分が威張るのはもっと嫌いだ。

 

ところが教師の仕事は、べつだん威張る必要などないにしても、ともかく自分のほうが学生よりものを知っていて、そのことだけでも最初から相手より優位に立っているという前提がある。

 

優位・劣位というこの構図自体がわたしを落ち着かない気持ちにさせるのだ。

「大学教授」という肩書には、そのことの是非はともかく、どこか「精神的」な意味合いがまとわりついており、教える側も教わる側もそれから自由になれないところがある。

上下関係の構図がないかぎり、教えるという行為は成立しえないという考えかたにも一面の真理はある。しかし、そこから派生する権力意識は、惰性や腐敗が生じた場合、ハラスメントの温床ともなりうる。

これからの大学教師の役割は、知識や技術を「教える」ということよりもむしろ、学生がそれらを発見してゆくのを「助ける」ということになってゆくのではないか。


「ヘルプ」というのはしごく単純な動詞だが、深い含蓄に富んだ行為だと思う。

 

「助けて、誰かが必要なんだ/助けて、誰でもいいわけじゃない」とかつてビートルズは歌ったが(「ヘルプ!」)、そう心の中で叫んでいる若者たちはどの時代にも沢山いる。

 

大学の先生も我こそ「プロフェッサー」なりと胸を張ったりせず、たんに「ヘルパー」と名乗ったらどうなのか。

 

(松浦寿輝『「教える」から「助ける」へ』日本経済新聞 2019年12月22日 p.32)

 

ふりかえってみれば思い当たることばかりだ。

 

「先生と呼ぶのは無しで」と言われたこと。

いつも開きっぱなしだった教授室のドア。

私の話を最後まで聞いてくれたこと。

私が先生のアドバイスに逆らったとき、怒るどころか笑ってたこと。

 

先生は“先生”でなく、ヘルパーであろうとしてたと思う。

どうして学生のときに気がつかなかったんだろう。