* * *
「先生は元気?」
と、彼女が私に聞く。
「変わらない」
と私が言うと、彼女は笑う。
私と彼女は同じ研究室の同期だった。
研究室を卒業した後、彼女は地方の大学の講師になり、私はポスドクとして東京に残った。
先生と話すのは苦手だったな、と彼女が言う。
うん、と私はうなずく。
私たちが学生だった頃、先生は研究室に来るといつも、目に入った学生に「どう?」と声をかけて話をした。
先生の話はとても勉強になるけれど、頻繁に声をかけられることでプレッシャーを感じることも多かった。
先生との話は議論というより指示に近く、先生と話しては実験するのを繰り返していると、ただ先生の言うとおりに動いているだけという気がした。
とくに彼女は研究室の入口近くに座っていたから、先生によく声を掛けられていた。
そんなとき、彼女は私を食堂に連れていき、ご飯を食べながら、「またわたしばっかり」という愚痴を言った。
それでも、彼女はいつも最後には、「まぁ、わたしが可愛いから仕方ないね」などとよくわからないことを言って、一人で笑っていた。
彼女のそういうところが私は好きだった。
いま私たちは学生ではなくなり、逆に学生に声をかける立場になった。
最近、先生の気持ちがわかる気がする、と私は彼女に言ってみる。
「先生も別に学生にプレッシャーをかけるつもりはないよね。たぶんああやって話すことで、学生の力になろうとしてるんだよね」
うん、そうかもしれない。それでも、と彼女は言う。
「それならそう言ってほしかった。それで話の聞き方が変わったかもしれないし、別のやり方をお願いできたかもしれない。私は我慢しなくてよかったかもしれない。
ねぇ、わたしたちも学生に何か言うときは、それを言う理由もちゃんと説明した方がいいと思う」
学生に察してほしいなんて、教員の甘えだよ。
そう言った彼女に、私は少し驚いて、
「でも嫌なら嫌だって言えばいいじゃん。言わないってことは、先生の意図をある程度察してたんじゃないの?」
と、意地の悪いことを言った。
そうだね、嫌とは言えなかった、と彼女は言う。
「でも言えなかったのは、先生に嫌われたくなかったからだと思う。あの頃は研究室が全てだったし。論文とか、卒業とか、就職とか、失うものが多すぎて、下手なことは言えないよ」
先生と学生の立場は公平じゃない。
そんなことは私もよく知ってた。
それなのに今の私は、それをあまり意識しなくなっていた。
もしかして私も、研究室の学生たちに何か我慢をさせているのかもしれない。
そんなことを考えて黙ってしまった私に、彼女は明るい声で言った。
「今なら平気で言えるのにね。先生、それちょっと嫌です、って」
それで私は少し気が抜けて言った。
「それだけ強くなったんじゃない?」
「研究室が全てじゃないって気がついただけ。わたしはか弱いままだよ?」
彼女はそう言って、一人で笑った。