「わかった」にとりつかれて研究者になる

 

図書館に行くのが好きだ。

書架に並んでいる本を眺めながら歩いていると心が落ち着く。

研究室での作業に疲れたときは、よく図書館に行ってただぼんやりと歩いている。

静かな空気や紙の匂い、絨毯をふむ感触が好きだ。

晴れた日には窓際の机につっぷして寝てる学生をよく見かける。

その幸せそうな背中を見ると気が抜ける。

ここに私を傷つけるものは何もないという気がする。

 

図書館の中をひととおりまわると、いつも最後に自分の専門の本がならぶ一角へ行く。

そこにある本には私の思い出がくっついている。

大学の講義で読まされた本、研究室に入ってから輪講で読んだ本、卒論のイントロを書くためにあわてて読んだ本。

そんな本を見て頭に浮かんでくるのは、「わからない……」と絶望しながら、それでも必死でページをめくった毎日だ。

そんな時間が私に教えてくれたことは、「わかる」というよろこびだった。

 

 

「わからない」の先にある「わかった」というよろこび

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研究室に配属されてまもない頃、先生はよく私に難しい本を勧めてきた。

先生が本棚からひっぱりだしてきた本の、分厚さと難しさに絶望して私は言った。

「もう少しやさしい本はないですか?」

すると先生は言った。

「難しいのはわかっています。わからなくてもいいから、ひととおり読んでみてください。遠回りに思うかも知れないけど、今の森野くんには時間がある。今しかできないことです」

 

そう言われて、しかたなく私はその本を読んだ。

それは圧倒的に効率の悪い作業だった。

一行読んでは専門用語を調べ、また一行読んでは文の意味をしばらく考える、そんなことをずっと繰り返した。

そこまでしても、あとに残るのはただ文をなぞっているだけのような感覚で、はたしてこれは何かが自分の身についているのだろうかと疑問に思った。

 

三週間ほどかけて、その本を一通り読んだ。

何かがわかったという気はまったくしていなかった。

先生に本を読み終わったことを報告しに行ったとき、私は内心ドキドキしていた。

本について何か聞かれるんじゃないかと思ったからだ。

ところが先生は、

「そうですか」

と言っただけで本棚の奥へ消えていった。ほっとした私に先生は、

「じゃあ次はこれ。フフフ」

と別の分厚い本を渡してきた。

しかも二冊。

私は貼りついた笑顔で本を受け取った。

 

ためいきとともに二冊目の本をめくってみると、書いてあることが最初に読んだ本とほとんど同じだと気がついた。

あれ、と思って三冊目の本も見てみると、やっぱり似たような内容だった。

「こっちの方が発展的な内容なのかな…?」

そう思って読みすすめてみると、説明の仕方や図は違ったけれど、内容はほとんど同じだった。

「なんだ、だいたい同じじゃん」

その二冊目の本を、私は一週間くらいで読み終わった。

 

それは三冊目の本のなかばにさしかかった頃だった。

そこに書いてあった一文を読んだとき、一冊目の本に書いてあったことが頭の中に鮮やかによみがえった。

「そういう意味だったのか」

私は思わず口に出してそう言った。

あわてて一冊目の本をめくり(先生が私に持たせたままだった)、そのページを探した。

そういう意味だと思ってもう一度そのあたりを読んでみると、今度はそこに書いてあることがはっきりわかった。

「そういうことか…だからこれが大事なんだ」

そのとき私はようやく、著者がこの文を書いた意味を理解した。

 

そこからはまるで答え合わせのようだった。

ミステリーの解決編みたいに、いろんなことがつながって意味がはっきりしていった。

その興奮は圧倒的で、私は壊れたようにただ夢中でページのあいだを行ったり来たりした。

 

 

 

「わかりやすい」で終わるのはもったいない 

 

私は勉強なんてはっきり言ってきらいだった。

やらなくてすむならそれにこしたことはないと思っていた。

世の中に楽しいことはたくさんあるし、人生は短い。

 

それでも我慢して勉強したのは、学校でいい成績を取っていれば将来らくに生きられると思ったからだ。

だから私はいかに勉強せずにテストで良い点を取るかをずっと考えていた。

 

大学に入った後も、少しでも勉強時間を減らして、その分バイトや遊ぶ時間を増やそうとした。

幸い、わかりやすい情報がネットでいくらでも手に入った。

「5分でわかる相対性理論」とか、「3日で復習・高校生物」とか、「これだけでOK!エッセンス線形代数」みたいなやつ。

そういうのはとてもよくまとまっていて、短い時間でだいたいわかったという気持ちにさせてくれた。

「あぁよかった、あとはテストに出そうな所を覚えれば終わりだ」

それが学部生だった頃の、私の勉強のすべてだった。

 

研究室に配属されてからも、私は同じようにてっとり早くいろんなことを知って、はやく先輩たちに追いつこうとした。

そんな私に先生は「あせることはありません」と、分厚い本を何冊も読ませたのだった。

 

じつは最初の本が一番むずかしかったらしい。

「晴れたあとに雨が降っても気がめいるだけ。雨のあとに晴れると虹が見える」

難しい本から簡単な本へ。それが学ぶ楽しさを知るコツだそうだ。

 

そうして私は勉強の楽しさをはじめて知った。

興奮する私を見て先生は、

「森野くんが学問に目覚めた。フフフ」

と笑っていた。

 

きっと大学はそういう場所だったんだろうと、今になって思う。

勉強するところではなく、勉強する楽しさを知るところ。

それさえ知れば、あとの人生ずっと勉強し続けられるから。

 

むかし読んだ本に、大学生の質問に答える大学教員の話があった。

Q:僕も先生のように本をたくさん読めたらいいと思うのですが、時間がとれなくてなかなか読めません。なにかコツのようなものはありますか?

 

A:時間がないなんてことがありますか。誰の一日も二十四時間です。それに、本を速く読む必要なんてまったくない。料理を速く食べたってしかたがないのと一緒です。

 

森博嗣『―森助教授VS理系大学生 臨機応答・変問自在 (集英社新書)』より

 

 時間をかけて味わうから、その美味しさに気がついて感動するんだろう。

 相対性理論を5分で理解してどうするんだ、と今の私は思う。

「5分で食べる高級フレンチ」? なにそれもったいない、みたいな。

 

てっとり早く理解しようとするのは、勉強がきらいだからだ。

でも学ぶ楽しさを知るためには、大きな山を一つ乗り越えないといけない。

もし先生がいなかったら、私もきっと勉強がきらいなままだったと思う。

あの時の先生のように、私も誰かの背中を押したい。

 

 

「大学で研究をしています」

仕事以外で出会った人にそう言うと、

「勉強がお好きなんですね」

と言われることがある。

たしかに今はそうかもしれない。昔は勉強なんてあんなにきらいだったのに。

 

でも私はべつに、机に座って難しい本をにらんでいるのが好きなわけじゃない。

ただその後にやってくる、あの「わかった」という瞬間にとりつかれているから、今日も難しい本を求めて、私は図書館をさまよい歩いている。