なんで論文なんか書くのか

 

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私がポスドクになって今の研究室に来たとき、イトウくんという学生がいた。

彼は学部の4年生で、卒業研究をやっていた。

私と彼は研究テーマが似ていたから、よく並んで座って話をした。

 

キャンパスのイチョウが黄色くなった頃、

「卒研発表までもう3ヶ月しかないです」と、イトウくんが言った。

「やばいね」と私は言った。

人ごとなので、たぶんニヤニヤしていた。

 

優しい私は、

「そろそろ卒論も書かないといけないね」と、追い打ちをかけようとした。

すると彼は、

「論文は書かなくてもいいです」と言った。

「えっ、そうなの?」

「はい。発表すれば卒業できます」

 

それを聞いて私は、

「そうなんだ。楽でいいね」と、心からうらやましそうに言った。

イトウくんは、

「そうですね」と、少し困ったように笑った。

 

このときのことを、私は今でも後悔している。

 

 

なんで論文なんか書くのか

 

私が卒業研究をやりはじめたとき、当時の先生は「とりあえず論文を考えてみて」と、何度も私に言った。

まだろくに結果も出てないのに、なんで論文なんか書かなきゃいけないんだと、私は思った。

単位のために、結局は書かないといけないことはわかっている。

私が言いたいのは、まだ早いだろうということだ。

まだあわてるような時間じゃない。

講義のレポートだって、ずっとギリギリを生きてきたんだ。

 

でも私もそろそろ大人にならないといけないから、論文をそろりと書いてみた。

 

全然楽しくなかった。

実験とかをもっとやりたかった。

 

なんで楽しくなかったんだろう?

文章を書くのは別にきらいじゃなかったのに。

妄想を書いてたら朝になってたこともある。

あれは楽しかった。今は闇の底に封印されているが。それはともかく。

 

いま思うに、論文を書くのがつらかったのは、たぶん私が論文を書く目的をよく知らなかったからだ。

 

 

論文を書く目的

 

論文を書く目的は二つある(と思う)

 

一つは、研究を報告することだ。

研究は論文にしてはじめて人に認められて、単位がもらえたり業績になったりする。

Publish or perish(出版するか、死か)というらしい。

たぶん私はこっちの理由しか知らなかったから、論文を書くのがつらかったのだ。

 

なぜつらいのか?

書いた論文が読まれないからだ。

 

卒論は審査が終わったら、もう誰かに読まれることはほとんどない。

研究室の後輩がひょっとしたら読むかもしれない、というくらいだ。

 

出版される論文でさえほとんど読まれず、多くが一度も引用されない。

 

驚くことに、出版された論文の25〜50%は一度も引用されないことがわかってきた。

(中略)

最も大きな理由は、論文を出版した著者自身が自分の論文をあまり重要じゃないと思っているためだという。じゃどうして、自分でも重要じゃないと思ってる研究結果を出版したがるのか?  この理由は次の通りである。研究プロジェクトが終わるとき、プロジェクトは成功裏に終わりました、という証拠が欲しいと誰もが思う。その証拠としては、プロジェクトの結果を論文に書いて出版することしかないのである。

(中略)

結局のところ、研究の結果はつまらなくて役に立たなくても、論文として出版しなければならない。

 

Frederick Grinnell『グリンネルの研究成功マニュアル―科学研究のとらえ方と研究者になるための指針』pp. 120-121より

  

論文が読まれないことは、書いた本人が一番よくわかっている。

誰にも読まれないような論文を、単位や業績のために、こんなに時間と労力をかけて書く必要があるんだろうか?

もっと実験とか解析とか、そういう“研究”をもっとするべきなんじゃないのか?

そんなふうに感じて、論文を書くのがつらくなる。

 

図にするとこんな感じだ。

図「論文に時間がとられて研究できない」

 

そんなふうに思ってしまったのは、論文を書くもう一つの目的を、私が知らなかったからだ。

 

 

研究を進めるために論文を書く

 

私が卒業研究で先生から教わったことは、だいたい半分くらいが論文の書き方だったと思う。

私が書いた卒論を、先生は何度も直してくれた。

正確には、先生と一緒に論文を読んで、「ここは何が言いたいのかわからない」とか、「ここは……書き直し」とか、さんざん言われた。

 

でもそうやって論文を書かされて書いていると、たまにハッとすることがあった。

 

たとえばグラフの説明を書いているとき、データの別の解釈を思いついたり。

先行研究との比較を書いているとき、やろうと思ってた実験がじつは要らないことに気がついたり。

 

それを先生に相談すると、

「じゃあ代わりにこんなグラフがあって、こういう説明があるといいね」と教えてくれた。

私はそれを論文に書きこんだ。

 

実験をやる前に、予想の結果と説明を論文に書いたのは、そのときが初めてだった。

 

「論文は研究の地図みたいなもの」と、先生が言っていた。

たぶん、地図を広げてどこに行って何を見たいか考えるみたいに、研究で何を知りたくてどうすればいいのか、論文を書いてみて考えろってことだと思う。

実際に実験して何かわかったら、そのつど書き足したり直したりしていく。

論文を使って全体を見ながら研究を進めていくと、もっといいルートが見つかったり、横道に迷いこんでるのに気がついたりする。

実験で良い工夫ができたり、無駄をなくしたりできる。

ゲームのマッピングみたいなものだと思った。

 

論文は研究を効率よく進めるために書く。

そう考えると、何のために論文を書いてるのか、なんて思わなくてすんだ。

 

図「論文を書いては実験をする」

 

論文は書かなくても卒業できる、とイトウくんが言ったとき、

「それは楽でよかったね」じゃなくて、

「それでも論文は書いたほうが、いい研究ができるよ」と言うべきだった。

 

それに気づいたのは、イトウくんが学部を卒業して、別の研究室に進んでしまった後だった。

私はあんなに、先生から教えてもらったのに。

 

今の彼が、昔の私みたいに「なんで論文なんか書かないといけないのか」なんて思ってなければいいと思う。


「出版するか、死か」というのは本当だ。

現実は厳しい。

 

でも政治学者の丸山真男さんが、学問を花、業績を果実にたとえてこう言っている。

 

芸術や教養は「果実より花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値があるというわけです。

 

丸山真男『日本の思想 (岩波新書)』p. 178より

 

私は欲が深いので、できればきれいな花が良い実をつける、みたいな研究生活がいいなと思う。

 

イトウくんが聞いたらなんて言うだろうか。

「そうですね」と、また困ったように笑うだろうか。