レベル1.内容がわかる
論文を読むのは暗号の解読みたいだ、と大学生のとき私は思った。
あのころ私は、研究室の机に座って一日中、論文を読んでいた。
読んでいたというか、少し読む→知らない単語が出てくる→辞書で調べる、ということをくり返していた。
辞書に書いてあるのは日本語なのだけど、ときどきその日本語の意味さえわからないことがあった。
気が遠くなった。
そんなとき私はよく、古代文字を読む人になって気をまぎらわせた。
ラピュタのムスカ大佐みたいな感じだ。
これをぜんぶ解読したとき、きっと聖なる光が私を天空へ導くだろう。
大学院に入ってからも、論文を読むのは大変だった。
先生や先輩たちは休憩中にコーヒー飲みながら読んでたりしたけれど、私にとってはそんな優雅なものではなかった。
でもごくたまに、自分の研究によく似た論文があって、スラスラと読めることがあった。
専門用語や実験方法が知ってるものばかりだったから。
それはとても嬉しかった。
読める……読めるぞ!!
レベル2.メタ情報がわかる
内容が私にもわかる論文は貴重だった。
研究の参考にできるし、論文を書くときに引用できる。
自分の研究の材料になってくれる。
そんな論文を見つけたとき、私はすぐ、助教のニシダさんに言った。
「ニシダさん、お疲れさまです。良い論文ありましたよ」
私がそう言うとニシダさんはいつも、
「へぇ、どれどれ」と言って、論文を読んでくれた。
私にときどき質問しながら、ニシダさんはすごい速さで論文を読んだ。
「へえ」とか、「すごい」とか、「んん?」とか言いながら。
私はそれを見てるのがちょっと好きだった。
でも冬になるとニシダさんの部屋は寒くて、私はいつもこっそりと足元のヒーターを自分の方に寄せた。
「うん、これは引用した方が良いね。あと、書き方もマネした方がいいよ」
論文を読み終わったニシダさんがそう言った。
「書き方、ですか?」と、私は聞いた。
「そう。もし僕が同じ結果を出したとしても、これだけインパクトのある書き方はできない気がする。ストーリーっていうかね」
「ふーん」
「要は見せ方の問題なんだけど」
そう言われても、そのときの私にはピンとこなかった。
論文のインパクトは実験の結果で決まると思っていた。
すごい結果なら、どんなふうに書いたってインパクトのある論文になると思っていた。
ニシダさんの言葉の意味がわかったのは、自分で投稿論文を書いたときだった。
書いた論文を、先生に何度も直されているうちに、書き方一つで論文の印象は大きく変わることを知った。
本から内容だけを読み取るのは消費者の発想だ。対して、自ら生産する意思を持つものの目には型が見える。絵画・音楽・落語・手品・陶芸・将棋・碁・麻雀・スポーツなども同じである。有名シェフと同じ料理ができても、それだけでは真似にすぎない。どのように新しいレシピを生み出すか。その方法を弟子は学ぶ。学び方をメタレベルで学ぶのである。
小坂井敏晶『答えのない世界を生きる』p. 60
レベル3.書かれていないことがわかる
論文を初めて投稿する直前、先生に言われて私は、引用し忘れている論文がないかチェックした。
そして私の研究にとても近い論文が数日前に出ていたことを知った。
私はあわててその論文を先生にメールした。
先生も気がついていなかったみたいで、一緒に対策を考えましょう、という返事がきた。
次の日、先生と二人でよく読んでみると、私の論文にうまく引用できそうだとわかった。
ああよかった、と私がすっかり安心していたとき、先生が言った。
「しかしこの論文は不思議だね。なんでこれについて何も書いてないんだろう?」
先生は論文のグラフの、あるところを指した。
言われてみるとたしかに不自然だった。
「……なんでですかね?」
そう言う私に、先生は言った。
「僕だったら、これは変だと思って、条件を変えた実験をやってみるかなあ。よく使われるのは温度だね。温度を変えるとね、これが面白いんだけど、……」
30分ほど話した後、先生は言った。
「まあ、この論文を書いた人はちゃんとしてるみたいだから、きっとそういう実験はやってるんだろうね。それで、たぶん面白いことが出てきたんじゃないかな。だから少しとっておいて、別の論文にしよう、って考えたのかもしれないね」
数カ月後、先生の言ったとおり、温度を変えた実験の論文が出た。
先生はいったいどれだけ多くのことを論文から読み取っているんだろうか、と私は思った。
同じ論文を読んだのに、私はグラフの不自然なところに気がつかなかったし、もし気がついたとしても、著者の思惑なんてたぶん想像もできなかった。
論文にはたくさんの情報が載っている。
書かれていること、書かれていないこと。
私が読み取れたのは、その中のほんのわずかに思えた。
運よく素晴らしい論文に出会っても、私には、私にわかることしか、そこから読み取ることができないのだ。
それは悲しいし、もったいないので、良い論文を見つけたら先生たちにも絶対読んでもらおうと私は思った。
彼は、自分が気づいていなかったことは、本を読んでも理解できないのだよ、と言いました。「あれ、本って知らなかったことを知るために読むんじゃないの」と思う人もいるかもしれませんが、違います。うっすら感じてわかってはいたけれど、自分の中で言語化できていなかったことだけが、本を読んだことで理解できるのです。
ワタナベアニ『ロバート・ツルッパゲとの対話』p. 53