ひとめぼれだった。
夜7時の渋谷駅、井の頭線の改札前で僕は彼女に会った。
長くて黒い髪、まっしろな肌、ネコみたいな目。
彼女を見たとき、駅の喧騒が遠くなった気がした。
「佐倉です。はじめまして」
彼女がそう言った。
僕は頭を下げた。
グリーンのパンプスを彼女は履いていた気がする。
研究室訪問
新しい年があけてしばらくした頃、僕は東京にきた。
春からこっちの大学院に通うから、住む部屋を探すため。
不動産屋に行ったあと、お世話になる研究室に挨拶に行った。
東大の研究室に行くのはこの時がはじめてだった。
ひんやりとした冬の空気がキャンパスを包んでいた。
イチョウ並木は葉っぱが全部なくなっていて、人影はまばらだった。
春にはこの樹がみんな緑になって、道が学生で埋まるんだろう。
ここでの大学院生活を想像してわくわくした。
先生に会うのは入試の面接以来だった。
ひさしく連絡しなかった僕を、それでも先生は歓迎してくれた。
ひととおり挨拶したあと、研究の話になった。
春までに読んでおいたほうがいい本や論文を教えてもらった。
「すこしだけ、簡単に説明しておきますか」
そう言ってはじまった先生の説明は、全然すこしでも簡単でもなかった。
ただうなづくだけの僕に、先生は面白そうに喋りつづけた。
何がそんなに面白いのか、説明されてもさっぱりわからなかったけれど、先生を見てるとなんだか面白いような気がしてきて笑った。
しばらくして、院生の人が部屋に入ってきた。
研究の打ち合わせをするらしく、僕は「それでは」と部屋を出た。たすかった
そのあと、別の院生の人が研究室の施設を案内してくれた。
実験室が4つもあって驚いた。
お金はあるところにはあるんだなぁと思って、僕は前の大学のちいさな研究室を思い出した。
恋
その日の夜、研究室の新年会があった。
僕は先生や先輩たちと一緒に渋谷にむかった。
駅に着くと、改札前に他の先輩たちが集まっていた。
平日よる7時の駅は騒然としていて、僕は先輩たちと簡単に自己紹介をした。
柱の影にいた先輩を見たとき、時間が止まったような気がした。
「D1の佐倉です。はじめまして」
彼女はそう言った。
僕は佐倉さんに恋をした。
それからマークシティの銀座ライオンに行って、みんなでご飯を食べた。
佐倉さんがお酒を飲めないことを知った。
佐倉さんと別の先輩が仲が良さそうに見えて、もしかしたら二人は付き合っているのかもしれないと不安になった。
会計が一人4千円でびっくりした。前の研究室だと一人300円でお好み焼きを食べていたのに。東京はおそろしい。
しかし奇跡が起こった。
佐倉さんと帰り道が同じだった。これが運命かと思った。ありがとう神様。
二人で東横線に乗った。
電車は混んでいて、僕たちはドアのそばに向き合って立った。
がんばって喋っていたのだけど、中目黒をすぎたころにはネタがなくなってお互い黙りがちになってしまった。
佐倉さんは自由が丘で降りるらしい。
(せっかくのチャンスなのに……何か面白いことを言わないと……)
と必死で考えていると、佐倉さんがバッグからフリスクを取り出して、
「食べる?」
と僕に聞いた。
「あ、はい」
と差し出した手に、フリスクを出してくれた。
佐倉さんの手が触れた。
「……おいしい」
そう言った僕は、たぶんバカみたいな顔をしてたと思う。でも佐倉さんは、
「でしょ?」
と言って笑った。
電車は自由が丘に着いて、佐倉さんは帰っていった。
窓の外を流れる夜の街がキラキラしてた。
大学院入学
春が来た。
僕は吉祥寺の近くにアパートを借りた。
家賃6万2千円、駅徒歩15分。
自転車でキャンパスまで通った。
東京は桜の多い街だと思った。
研究室に入って数カ月は、ひたすら研修だった。
それでも何か理由を見つけては、佐倉さんのいる部屋に行った。
研究室のミーティングも、佐倉さんがいると思うとがんばった。
まったくの不純な動機。
でも研究をする動機なんてなんだっていいんじゃないかと思う。
毎日は楽しかった。
きれいな女の人がいる研究室に入ると、もしかしたらみんな研究者になってしまうのかもしれない。
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