大学院に入ったばかりの頃、配属された研究室で研修を受けた。
僕は先輩について回って、実験機器を使ってみたり、実験ノートのとり方を教えてもらったりした。
ある日、先輩が先生たちとミーティングをするというので見学させてもらった。
そのときのことは今でもよく覚えている。
最初に、先輩が実験でとれたデータについて説明した。
先輩の堂々とした説明を聞いて、僕はとても感銘を受けた。
ふんふんとうなずきながら、はたして自分はこんなふうに説明できるだろうか(いや、できない)と思っていた。
でも先輩の説明が終わったとき、
「なんか変だね」
と助教さんが言った。そして、
「普通はこうなるはずなんだけど」
と、他のデータとの違いを指摘した。
先輩と僕は他のデータを知らなかったから、そこが変だと気がつかなかった。
なぜこのデータは変なんだろうねと、皆でうんうん考えていると、
「3次元でグラフを描いてみて」
と先生が言った。
「データが密なところとまばらなところが交互にある。たぶん、別の次元に周期性があるんじゃない?」
そう言われてはじめて僕は(たぶん先輩も)グラフのデータ分布に偏りがあることに気がついて愕然とした。
うそだろ……なんでこれが今まで見えなかったんだ?
その後も助教さんや先生が何か言うたびに、データの新しい見方に気がついた。
ゲームのダンジョンで新しい扉が次々と開いていくような感じだ。
僕はそんなところに扉があったことすら気がつかなかった。
先生たちは見えてるものが違うと知ったミーティングだった。
見えないものを見るために
どうすれば先生たちのように、いろんなことが見えるようになるんだろうか。
何年か後で、僕が論文を書いたときに先生が教えてくれたことがある。
先生に論文原稿を見せると、「大体いいですね」とか言いつつ「この図は削って、この内容をこっちにもってくるのはどうです?」と言った。たったそれだけで格段にわかりやすくなった。驚いた僕に、先生は「まだ甘いですね」と笑った。「理解不足ですか?」と聞くと「いや俯瞰力ですよ」と言った。(1/3)
— 森野キートス (@ki1tos) 2019年5月24日
「研究のことはもちろんよく理解されていると思います」と先生は言う。「ただまだ見る角度が狭い。事実は同じであっても、いろんな見方ができる。そういう俯瞰力を養うと、よりわかりやすい捉え方が見えるようになります。俯瞰力を養うには、何より人の話を聞くことです」(2/3)
— 森野キートス (@ki1tos) 2019年5月25日
「研究をしていると、人からいろんな意見をもらうでしょう。その中には"どうでもいい"とか、"それほど重要ではない"と思うようなこともあるんじゃないですか?それこそが自分になくて、人が大切だと思っているものの見方です。そんな時こそじっくりと考えるようにしてみてください」(3/3)
— 森野キートス (@ki1tos) 2019年5月26日
学ぶということは、誰かの視点でものを見ることかもしれないと思った。
人の話を聞いたり、本を読んだりすると、その人がどんな考え方をして、どんなふうに世界を見ているかわかる。
そのとき、自分が想像もできなかったものが見えたりする。
そうやって自分の見える世界を広げてくれるから、学ぶことは楽しいんだと思う。
でも、どうして自分と他人はそんなに見えてるものが違うのだろうか?
目に映っているものは同じはずなのに。
どうやら目に映る景色は同じでも、頭ではまったく違うものに変換されてるらしい。
「人は言語を抜きに世界を眺めることができない」とワタナベアニさんが言っていた。
たとえば海に行って写真を撮るとします。砂浜に立ち、水平線にカメラを向け、シャッターを切る。そのたった数秒の間に、気づかないだけで言葉は数十も数百も脳の中をものすごい速度で駆け巡っています。なぜ言葉が飛び交うのか。それは「名詞の集まりで認識されたモノが世界だから」です。
コニー・アイランド、カモメ、ホットドッグ売り、黄色いフラッグ、夏の終わり、サンオイルの香り、風、裸足の女性、伝えられなかった言葉。
そういった文字の羅列から脳を完全に切り離して無心に世界を見ることは不可能です。海の写真を1枚撮るだけでもそれだけの言葉がとおりすぎたあとでシャッターを切っているのです。
ちなみに、言葉を羅列した最後に、「伝えられなかった言葉」と言っておくと、妙にカッコよく聞こえてモテる場合があるので、試してみてください。
ワタナベアニ『ロバート・ツルッパゲとの対話』pp. 59-60
人が眺める世界は言葉でできていて、その言葉の一つ一つは人それぞれ違うから、見えてる世界も違う。
僕は中学生くらいのとき、「コップの水理論」というのを知った。
水が半分だけ入っているコップを見て、「水が半分しか入ってない」と思うか、それとも「水が半分も入ってる」と思うか、というアレ。
あのとき僕は、できるだけポジティブな考え方をしようと思った。
でもこの前、久石譲さんの本を読んで少し考えが変わった。
目の前にコップがある。全員がこれはコップだという。そこで、「いや、これは花瓶です」という発想があるか。
こうあらねばならんという意識は、精神が自由ではない。固定概念に縛られずにものを見たら、同じ風景を見ても、もっといっぱい感じるものがあるかもしれない。
久石譲『感動をつくれますか? (角川oneテーマ21)』p.57
水が半分入ったコップを見たとき、水の量なんてどうでもよくて、そこに花が見える。
そんな人生はいいなぁと思って以来、僕にも水の入ったコップが花瓶に見える。
でももしその言葉を知らなかったら、僕にはコップが花瓶には見えないままだった。
これからもいろんな人たちの言葉を聞いて、人生も研究も、少しでも良い見方を見つけたいと思う。