先生の教え方、あるいは大学院生のなんでもない一日について

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私は、先生に少しでも恩を返せたのだろうか?

 

あの日も、先生は何時間も一緒にいてくれた。

お腹がすいて、二人で学食に晩ごはんを食べに行った。

夜遅くまでやってる食堂は隣のキャンパスにしかなくて、薄暗い道を街灯を頼りに20分くらい歩いた。

私は唐揚げ丼を食べて、先生は日替わり定食を食べたと思う。

大体いつもそうだった。

どうせ話すことに必死で、味なんてわからないからなんでもよかった。

 

こんなふうに書くと、大変だなと思われるかもしれない。

でもあの頃は大変だ、なんて思わなかった。

私が何を話すのか、一番楽しみだったのは私だ。

先生と話していると、自分でも驚くほど冴えた言葉が口から出てくる。

自分にもこんな良いことが言えるのかと、興奮して体が熱くなった。

自分がどんどん成長していくような感覚に私はただ夢中で、時間はいつもあっという間に過ぎていった。

 

ごはんを食べ終わると、歩いて研究室にもどって、また話をつづけた。

私が先生の話を理解できないとき、先生はいろんな方法で何度も私に教えてくれた。

言葉でダメなら式を書き、式でダメなら本や論文をひっぱり出して実例を見せてくれた。

それでもダメなときは私のデスクまで来て、実際に少しやって見せてくれたりまでした。

それは嬉しかったけれど、先生にそこまでさせる自分が情けないと思った。

「すみません」

と私は言った。すると先生は、

「理解できないのは、森野くんの理解力が乏しいからではない」

と言った。

「理解するというのは、知らないことを知ってることと結びつけることだからね。森野くんが私の話を理解できないということは、私が言ったことと森野くんの知ってることが結びつかなかった、ということになる。今この場で森野くんに知ってることをもっと増やせ、というのは無理な話だから、私が説明の仕方を変えるのが筋です。別の角度から、別の例を使って、別の方法で説明すれば、もしかしたら森野くんの知ってることとうまく結びつくかもしれない」

そう言われて、私はすこし泣いた。

先生は気づかないふりをした。

 

日付が変わる頃になって先生が、

「あぁ、そろそろ帰らないと。帰れなくなる。フフフ」

と言った。私は考えすぎてぼんやりする頭で、

「あ、じゃあ私も帰ります」

と、先生と一緒に部屋を出た。

 

すこし歩いたところで先生が、

「まずい、急がないと間に合わない。フフフ」

と言った。私は、

「あ、わかりました。お疲れさまです」

と言って、頭を下げた。

「じゃ、また明日」

そう言って小走りで駅にむかう先生は、なんだか楽しそうだった。

先生はいつも、私の研究を私より楽しんでいるように見えた。

 

先生の背中がすこしずつ遠ざかっていった。

横を通りすぎる車のヘッドライトが、小さくなった先生を照らす。

男は背中で語るという言葉は、あのすこし曲がった背中とは、ちょっとイメージが違うなぁ、と思っておかしくなった。

いつか、私もあんなふうになれるだろうか。

そして私は、私の愛すべきボロアパートに向かって、とぼとぼと夜道を歩いた。

 

それは私が大学院生だった頃の、なんでもない素晴らしい一日だった。