大学の研究室に初めて入った日の話

「来月からお世話になります!よろしくお願いします!」と、彼は僕に頭を下げた。

4月から新しくうちの研究室に入ってくる、修士1年生の男の子。

「こちらこそ、よろしくお願いします」と言いながら、僕は彼のキラキラした目を見ていた。

きちんと整えられた髪、買ったばかりみたいに綺麗な服。一方、僕は何万回洗ったんだそれ、というような服を着ていて、髪もたぶんもっさりしている。だいたいわかる。

 

「分子運動のシミュレーションをしたくて、この研究室に来ました!」

彼のまっすぐな目が、僕には少しまぶしかった。

 

上級生に連れられて、部屋の設備の説明を受けている彼を、僕は遠くから少し眺めてみた。流しの横に食器が山積みになってる薄汚れたカゴある。それを見て彼は、

「きたないっすねー」と笑っていた。

 

10年くらい前に、僕もそんなふうに思ったことがある。当時の研究室で見た、薄汚れたコップの山、窓際に干されたボロいタオル、タンクトップ姿でパソコンにかじりついてる先輩。

汚いし、せまいし、ちょっと変な匂いがした。でもすごくワクワクした。秘密基地みたいな部屋。

もしかして新入生の彼も今、この部屋を見てワクワクしてたりするんだろうかと、楽しそうな彼を見て思った。

 

 

初めての研究室見学

 

僕が初めて大学の研究室に入ったのは、大学2年の時だった。学科の研究室見学があって、同級生と三人で研究棟に向かった。

5月にしては暑い日で、もうすぐ春も終わるんだなと思った。裏山の上に白い雲が浮かんでいた。

 
少し緊張しながら研究室のドアをノックすると、ロン毛のバンドマンみたいな人が出てきた。
「あぁ、二年生の人ですね、ようこそ」と、そのひょろりとしたバンドマンは言って、僕たちを部屋の中へ入れてくれた。
(すごく後になって、バンドマン先輩はほんとにバンドマンだとわかった)
 
部屋に入ってすぐ目の前に、大きな本棚があった。僕の背より高くて、天井まで本がつまっている。
本棚の横を抜けると、奥に窓があって、外の街路樹や運動場が見えた。
デスクにヨレヨレのタンクトップを着た人が座っていて、パソコンになにやら打ち込んでいた。
隅の流し台に、汚れたカップがカゴに山積みになっていた。
 

f:id:kitos:20200316223938p:plain

 
デスクの間を通って奥に進むと、いろんな機械が無数のケーブルでつながっていた。
僕らはそれらに触れないように、気をつけて歩いた。 
 
バンドマン先輩が銀色の機械の前で止まった。
これは真空チャンバーです」と、先輩は言った。
今からこの中に真空を作ります」
先輩がスイッチを入れると、掃除機ような音がした。
中の空気が吸い出されていく様子を見ながら、僕は機械がぶっ壊れて破片が飛んでくるんじゃないかとヒヤヒヤしていた。
 

f:id:kitos:20200317163009p:plain

 しばらくして先輩は、

今、この中は0.0000000001気圧になりました。この装置だとこれが限界で、これ以下の超高真空にするには、うんぬん」と説明してくれたけれど、僕はほとんど聞いていなかった。
目の前の球の中に真空がある。これで何ができるんだろうか。もしかしたらすごい秘密がわかるのかもしれない。
そんなことを夢中で考えていた。
 

 

大学院生とバーベキュー

 
研究室の見学がおわると、学科の交流会がひらかれた。
すぐ後ろは山っていう、へんぴな僕らのキャンパスでは、イベントといえばバーベキューだった。
一番下っ端の僕たちは、研究棟の物置からバーベキューセットを運び出し、せっせと炭起こしを始めた。
着火剤に火をつけて、あとは火が炭に移るようにひたすらうちわで風を送るわけだけど、これが全然うまくいかない。
炭に火がついたと思ったら消え、消えてはつけの繰り返しだった。暑くて汗がとまらない。
 
途中で先生らしき人がきて、
効率よく酸素を供給するには炭の配置が、うんぬん」と言っていたけれど、うるせぇ代わってくれという気持ちしかなかった。
ふと周りを見ると、同級生の男たちがみんな同じように黙々とうちわをあおいでいて、なんだか笑えた。
空も雲も赤く染まっていて、太陽が山の向こうに沈もうとしていた。
 
同級生の一人が炭起こしのコツを発見したおかげで、なんとかバーベキューの準備が間に合った。きっとイノベーションはこんなふうに起こるんだろう。
学科交流バーベキューは(僕達のおかげで)なごやかに始まった。
 
準備という義務を終えた僕たちは、隅の方で猛然と肉を食べ始めた。我々新人はタダなのである。
ふだん菓子パンと袋麺しか食べていない我々にとって、肉の魔力はすさまじく、このために過酷な労働に耐えたといえる。仲間の一人は泣いていた。煙が目にしみたと言っていた。
 
少し落ち着いた頃(我々の胃袋が)、世話人の先生がやってきて、
こんな隅っこに固まってないで、皆さんに飲み物でも配ってきなさい」と言った。
今ならパワハラだと戦えるかもしれないが、当時の純真な我々は無力であり、言われるがまま素直に飲み物を抱えて歩き回った。
 
会場を歩き回っていると、やたら煙の多いコンロがあった。
見てみると、中で大量の紙が燃えていた。
なんだと思う?」と院生らしき人に聞かれた。
「なんですか?プリント?」
「いや、彼の論文だよ」
少し離れたところに座って、こっちをぼーっと見ている人がいた。
ドラフト。完成途中の原稿ね。毎年こうやって燃やしてるんだよ。供養らしい」
「へぇ…なんというか、変わってますね」
僕がそういうと彼は笑って、
もっと変なやつはいっぱいいるよ。こいつなんか毎晩研究棟の廊下で寝てるしね」
「えっ」
あそこが一番よく眠れるんだ」と隣にいた人が応えた。バンドマン先輩だった。
どこの研究室も自由だから。人は自由になるとどんどん個性的になるっていうか、本来の自分が現れてくる」
「そうなん…ですね…」
絶句する僕に、先輩は言った。
 
ようこそ、物理学専攻へ」
 
 

研究室に初めて入った日に思ったこと

 
あの日、僕は初めて大学院生という人たちに出会った。
研究の話と、たまに趣味やかわいい女の子の話を楽しそうにする、とても気楽な人たちだった。
人生の悩みのほとんどは、お金・健康・人間関係だといわれるけれど、そんな話をする人は、あのバーベキューにはいなかった。
きっとここには、自分の好きなことにひたすら没頭する毎日があるんだろう。 
僕もそんなふうに毎日を過ごしてみたいと心から思った。
 
かなり後になって、あの時の僕の考えは、正しいところも間違ったところもあったとわかった。
研究室で過ごす毎日は、確かに一般的な悩みにわずらわされることは少なかったけれど、決して楽園のようなものではなかった。
自分の好きなことに好きなだけ向き合うと、時に残酷なくらい、自分の無力さを突きつけられることがある。
知識が増えるほどに、本当に自分が知りたいことまでの距離は大きくなっていって、自分の歩みの遅さに悲しくなる。
このまま一生がんばったところで、僕はどこにもたどりつけないんじゃないだろうか。
大学というぬるま湯の中で、気づかないうちにゆでガエルになって死ぬのかもしれない。そんなことを考える時もあった。
 
でも毎年、研究室に新しく入ってくる学生たちが、研究室に初めて入ったあの日のことを僕に思い出させてくれる。
あのときは想像もできなかったつらいこともあるけれど、同時にあの時思った以上に嬉しいことだってあった。
あのとき憧れた毎日を僕は過ごすことができている。
たとえどこにもたどり着けないとしても、自分の行きたい所に向かって歩き続けられることがとても幸せだと思う。
 
僕と同じように、研究を続けることに自信を失う時がもしもあったら、初めて研究室に入った日の事を少し思い出してみてほしい。