大学へ通う電車の中で、論文を読んでいる人を昔よく見かけた。
その頃まだ学生だった私は、そんな人たちを見つけては、「卒論の時期だな」とか、「ゼミ発表が近いのかもしれない」と、論文読んでる理由を勝手に想像してた。
「なにも電車の中で読まなくてもいいのに」と思った。
その頃の私にとって、論文を読むことは勉強だった。
電車の中で勉強している高校生をみて「たいへんだな」と思う感じ。
でも今の私には、あの人たちの気持ちがわかる気がする。
電車の中で論文読みながら、たまにニヤニヤしてた人たちの気持ちが。
論文が読めない理由
論文を読むことを教えてもらったのは、大学4年のときだった。
卒業研究のために配属された研究室で、週に一度「論文を読む会」があった。
いつも火曜日の夕方に、みんなでせまいミーティングルームに集まった。
毎回、学生の誰かが論文をプリントして配り、タイトルから読んでいく。
英語を一文読んでは、意味を日本語で説明。その繰り返しだった。
先輩の説明と先生の話を、私はふむふむと聞きながら、英語の発音や、数式の読み方、グラフの見方など、もっぱら表面的なことを学んでいた。
いや、あまり表現が良くないな。言い方を変えます。
私は、浅いうわっつらを学んでいた。
かんじんの研究の重要性は、さっぱりわからなかった。
先輩たちが当たり前のように使っている言葉(日本語)さえ私にはわからず、意味を調べてついていくので精一杯だった。
「この実験の目的は何?」と先生は先輩に聞く。
先輩はなんでもないみたいに答えるけど、私にはいつも見当もつかない。
どうか私が論文を紹介する回は永遠にこないでくださいと、私はまっすぐな心で祈っていた。
しかし数カ月がたち、無情にも私のターンが近づいてきた。
私は先生から薦められた論文を読み、来たるべき日に備えた。
それはなんというか、その、苦痛。
英文を読んでみてもさっぱりわからないので、とりあえず何日もかけて和訳した。
できあがった日本語の文を読んでみると、なんとさっぱりわからない。
私は絶望した。
だいたい日本語の論文だってろくにわからないのに、英語の論文が理解できるわけがないのだ。
私はひらきなおった。
先生や先輩たちがうれしそうに論文を読むのが、私には信じられなかった。
論文を読む理由
大学院に進んでしばらくした頃、私はある論文を読んだ。
「論文を読むのはしんどいけど、勉強のためだと思えばできなくもないな」
そんなふうに思いはじめた頃だった。
その論文を少し読んでみると、内容が自分の研究とあまりにも似ていて驚いた。
方法や材料は違うけど、調べている問題は同じだ。
それに気がついてからは息つく暇もなく、ひたすら読んでた。
先を読むのが楽しみで止められない反面、怖くもあった。
自分が知りたかった答えが書かれているかもしれないという期待と、自分の研究はすでに誰かがやっていたのかもしれないという不安。
そして議論のパートにさしかかったとき、ある一文を見つけた。
そこに書かれていたことはまさに、私が研究で悩んでいたことそのものだった。
「この一文のほんとうの意味は、きっと私にしかわからない」
私はなぜかそう確信して、とてもうれしくなった。
この研究をしていてよかったと思った。
それから何年かあとで、こんな文章をみつけた。
わたしのさがしているものは、1930年前後に掲載された論文である。
棚にならんだ雑誌の背表紙を目で追いながら、ほこりをはらい、めざしている年をさがす。
書架の下のほうにようやくそれを見つけて、しゃがみこんで手にとってみる。
やや大判の雑誌だ。
ほこりをかぶった表紙をめくり、目次を調べ、論文にたどりつく。
そのページを大きく見開くと、背表紙がめりめりと音を立てる。
その場で活字に目を走らせながら、ふと私はあることに気がついて、背筋がぞくっとした。
「この論文は65年ものあいだ、この瞬間をただひたすら待っていたんだ」
この論文はコピーをとられることはおろか、印刷されてから65年間、一度も読まれた形跡がないのだ。おそらくこのページは開かれることもなかったらしい。
米国で発行されてからじつに65年、異国の地で、この論文は、わたしのような人間がどこからかやってくるのをただひたすら待っていたのである。
「ああ、私の仕事とはこういうものだったんだ。この仕事に就いていてほんとうによかった」と感慨で胸がいっぱいになった。
この論文のように出版された当時から、世界の図書館に散らばったにもかかわらず、ほとんど読まれない論文は多くあるのだろう。存在すら忘れられていく。
しかし、それでもいいのだ。
流行に背をむけて書くわたしの論文も、たぶん読まれることもなく、あちこちの大学の図書館で眠りつづけているにちがいない。
そして、いつの日か、どこからかやってきただれかの目にふれる。
50年後かもしれないし、100年後、あるいはもっと先かもしれない。
わたしにとっては手のとどかない未来。
想像もつかない未来。
それでも未来はかならずやってくる。
そしてそのとき、その読者が数行でも読んで何かを感じてくれれば、それでいいのだ。
そんな瞬間がくること自体に価値があるのだ。
そんな瞬間を未来のだれかと分かちあうために、わたしは論文を書きつづける。
(高橋伸夫『できる社員は「やり過ごす」』pp.190-192)
私にとって、あの論文を読んだときは「そんな瞬間」だったんだろう。
あれから私は、電車の中でも論文を読んでる。