東大の院に合格して、地元の大学院を退学して、実家でバイト生活をした

東大の大学院に受かったら

 

合格発表があったのは、その年の9月なかばの頃だった。

そのとき僕は、自分が東大の大学院に合格したことを知った。

それから5日ほど、これからどうしようかと考えながら、ただぼーっとして過ごした。

 

大学はまだ夏休みだった。

当時の研究室には少し顔を出すくらいでよかった。

僕は公園でお弁当を食べたり、バイクで海まで行って缶コーヒーを飲んだり、朝の街をジョギングしてみたりした。

穏やかな毎日だった。

世界が急に優しくなった気がした。

僕の心は、春から始まる東京生活へのあこがれと希望であふれていた。

「研究が進まない」「収入がない」「将来どうしよう」、そんなこれまでずっと悩んでいたことが、嘘みたいにどうでもよくなっていた。

それがとても嬉しくて、少しだけ悲しかった。

 

 

地元の大学院を退学する

 

5日後、そんな合格の余韻にもっとひたっていたかったけれど、

「そろそろ僕は、物事を前に進めなければならない」

と、村上春樹の本を読んで思った。

僕は、大学の事務に退学の手続きをしに行った。

 

「退学の手続きをしたいんですが」

僕がそう言うと、事務のおねいさんは

「退学?…の手続きですか?」とひどく驚いたようだった。

「ええ、そうなんです。僕としてもここを去るのはとても心苦しいのですが」

と僕はてっきり、学生が退学することなんてめったに無いから、おねいさんは驚いているのだと思っていた。

 

「えっと…いつ退学されます?」とおねいさんは聞いた。

「今月末で辞めようと思っています」と僕は答えた。

「えっと…今月はもう教授会が終わっていて、いま申請しても、承認されるのは来月になるかもしれません」

「えっ?」

「そうなると、次の学期に入ってしまいますね。学期の途中での退学は基本的に認められていませんので…」

「えっ?……まさか」

「はい、後期分の学費を払っていただくことになるかもしれません」

「えぇー!?(約27万円分の衝撃)

 

「教授会、昨日終わったところだったんです」とおねいさんは言った。

僕の頭に、ただぼーっと生きた5日間の思い出がよぎった。

なぜオレはあんなムダな時間を…

 

「いちおう今月末で処理できないか、かけあってみますね。今日、退学届はお持ちですか?」

「いや…持ってないです(小声)

「あ、じゃあこれが用紙なので、指導教員の先生にハンコをもらって、できるだけ早く持ってきてください!」

「はい…失礼しました!」

 そう言って、僕は先生の部屋へと急いだ。

 

 

さよなら、研究室のみなさま

 

結果的に、僕は前期末で退学することができた。

事務のおねいさんには、ほんとに頭が上がらない。

 

当時の指導教員の先生は、僕が大学院を辞めると言うと、少し驚いていた。

でも事情を話すと、応援してくれた。

先生も東大の出身で、しかも僕が行くのと同じキャンパスに研究室があったらしい。

懐かしそうに昔話を聞かせてくれた。

 

准教授や助教の先生方も、急な話だったのに笑って送り出してくれた。

たぶん合格しないだろうと思っていた僕は、受験することをまわりに一切言っていなかったのだ。

でも、そのことに文句を言う人は一人もいなかった。

 

このとき、僕は何か大事なことを教えてもらった気がした。

僕はそれまでずっと「何かに挑戦するときは、まわりの人と一緒に協力してやるべきだ」と思っていた。

だから、周りの人に言わずコソコソ受験することに、僕は少なからず罪悪感を感じていた。

だけど、それは勝手な思い込みに過ぎなかった。

本当にやりたいことは、まわりに迷惑をかけなければ、一人で勝手にやったっていいんだ。

このときそう思ったことで、僕はその後の人生、いろんなことにチャレンジできている。

 

 

実家に帰ってバイト生活

 

大学院を無事に退学した僕は、はれてただのニートになった。

借りていた奨学金もあざやかにストップされ、「来月の家賃はきっと払えない」という見通しがはっきり立った。

10月の終わり、僕は住んでいたアパートを出て実家に帰った。

東京に引っ越すまでの半年弱、のんびり本を読んだり、映画をみたりして過ごそうと思っていた。

 

しかし、僕が帰ってきたことを最初は好意的に受け止めてくれていた両親だったが、一週間がたつ頃には、早くも「何かアルバイトでもしたらどうなんだ」というオーラをまとい始めた。

そこで僕はとなり町のレンタルビデオ店でバイトを始めた。

ここで、ある一日の僕の業務内容を報告したい。

 

9:30 タイムカードを押して、パートのおば…おねいさんと一緒に店中に掃除機をかける。

10:00 外の返却ボックスから大量のDVDを回収。ギリギリに返しに来たお客さんからは手渡しで受け取る。とても喜ばれるので、いい仕事だと思う。

11:00 返却されたDVDを棚に戻すタイムアタックをする。韓流ドラマは場所がすぐわかるので嬉しい。

12:00 近くの牛丼屋でお昼ごはんを食べる。最速レコードを更新したので、奮発してチーズをトッピングする。

14:00 雨が降ってきたので、外ののぼりをしまう。服がわりと濡れる。

15:00 延滞中のお客さんに電話をする。ときどき罵倒される。メンタルが削れる。

16:00 高校時代の同級生が来店。「あれ、森野くん?ここで働いてるの?」と聞かれて「うん…」と苦笑いをする。メンタルが削れる。

17:00 レジのお金を計算する。誤差0。よかった帰れる。

 

 

そんな毎日を、ひたすら過ごした。

実家のまわりは田舎で、カフェも映画館もネットカフェもスーパー銭湯もなかった。

車社会で、バイトの人たちと飲みに行くこともなかった。

実家とレンタルビデオ店の間を、車で一時間かけて往復するうちに、季節は冬になっていた。

 

クリスマス映画の特集コーナーをつくり、みんなでサンタの帽子をかぶってレジに立った。

店長がトナカイの赤い鼻をつけて現れたとき、バイトの女の子の笑いが止まらなくなって、つられて何度も一緒に笑った。

何年かぶりに、家族でクリスマスケーキを食べた。

こたつの上で、友達に少しこった年賀状を書いた。

 

雪が降って、新しい年が来た。

僕は春から住む場所を探しに、東京へ行った。

 

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つづく