ハカセのあやしい研究ノート

いつかはかせになるひとへ

研究は愛と好奇心でできている、と彼女は別に言ってないけれど

研究室の建物を出ると、夕焼けで空がオレンジ色に染まっていた。

人がまばらになったキャンパスで、学生の男女が二人楽しそうに歩いていた。

 

男の子が何か言うと、女の子が笑って男の子の腕を叩いた。

男の子は大げさに痛がって、それから女の子と手をつないだ。

 

そんな様子を見ていると、僕は心のHPが限りなくゼロに近づいていくのを感じた。

 

夕暮れのキャンパスには淡く光る街灯が並んでいて、建物の窓から蛍光灯の光がもれている。

どこか遠くから楽器の音が聞こえて、道に沿って並ぶ木が風に揺れた。

 

手をつないで歩く二人のだいぶ後ろを歩きながら、僕は少し昔のことを思い出した。

あの頃、僕の隣を歩いていた彼女の茶色い髪。

揺れる長いスカートや、青いヒール。

そういうものを僕はまだ覚えていた。

 

***

 

彼女に会った頃、僕は大学とアパートを往復する毎日を送っていた。

僕は大学院生で、吉祥寺から渋谷まで自転車で片道1時間くらいかけて通った。

電車の定期代は、学生だと1ヶ月2500円くらいだったけど、僕は自転車を選んだ。

僕の地元とは違ってどこまでも平坦なこの街では、自転車一つでどこへでもいける気がしたし、あの頃の僕にはただ時間だけが無限にあるように思えた。

 

研究室の先生は放任主義で(というか単に忙しすぎるだけだったかもしれない)、僕たちはわりとわがままに研究していた。

僕は、

「一日中パソコンとにらめっこなんてしてられないよ」

とか言って実験ばかりやって、同期の一人は

「実験なんてめんどくさいよ」

とか言って計算ばかりやっていた。

たまに飲みに行くと(日高屋とか)、僕は彼が計算機にばかり仕事をさせて区民プールで泳いでいることに文句を言い、彼は僕が材料費や設備利用費でどんどん研究費を使っていることに文句を言った(月数万円くらいなら先生に聞かなくても使えた)。

だけど、「じゃあ交代する?」とはお互い言わなかった。

僕たちにはできることが山ほどあって、ただその中でやりたいことをやってるだけだった。

 

ある日、学内の研究会で自分の研究を紹介したら、

「それがわかって、誰が喜ぶんですか?」

と工学部の人に聞かれたことがある。

 

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「うーん…僕ですかね」

と僕は答えた。するとみんな笑った。

 

でもあの時の僕はわりと真剣にそう思っていた。

もちろん自分の研究が将来何の役に立つのか考えてはいる。

だけど、研究は基本的に自分の好奇心を満たしたくてやるものだと信じていた。

 

***

 

彼女に会ったのは、渋谷の英会話カフェだった。

 

「私はユキです」

そう自己紹介する彼女に僕は、

「いい名前ですね」

と全く気のきかないことを言った。

それでも彼女は、

「ありがとう」

と笑ってくれた。 

 

その場で彼女と年が近かったのは僕だけだったから、終わった後僕らは話しながら駅に向かった。

並んで歩いていると、すれ違う人たちがよく彼女を見ていることに気がついた。

彼女は背が高く、背筋が伸びていて、長い髪が歩くたびに揺れていた。

 

信号待ちをしていると、

「食べ物の話をしてたらお腹が空きました」

と彼女が言った。

いつかの経験で学んでいた僕は勇気を振り絞って、

「そっ、そういえば近くに気になってるイタリアンのお店があるんですけど、よかったら一緒に行きません?」

と言ってみた。 

彼女は少し驚いて、

「いいですね、行きましょう」

と笑った。

 

僕はドキドキしながら、もし彼女ができたら一度入ってみたいなと思っていた、オシャレな外観のお店に彼女を連れて行った。

「ここです」

僕がそう言うと彼女は、

「えっ、行きたい店ってプロントだったの?」

と驚いていた。

それを聞いて僕は、彼女もこの店が気になってたんだと、すごい偶然だと思って運命を感じた。

「そう、いい感じでしょ?」

僕が得意げにそう言うと、彼女は笑っていた。

店に入った瞬間、彼女が笑っていた本当の理由に僕は気がついた。

 

***

 

それから僕たちは何度か一緒にご飯を食べたり、遊びに行って、付き合うことになった。

  

ユキは調理師の専門学校で働いていて、休みの日には栄養学の学会に参加したりする人だった。

とても理系の知識に詳しくて、よく僕の研究の話を聞きたがった。

 

一方、僕はこれまでの経験から、女の子というのは基本的に僕の研究に興味がないと思っていて、だからできるだけそういう話はしないように自分を訓練してきた人間だった。

だいたい僕は研究の話は適当に終わらせ、僕のお気に入りの小説や音楽がいかに素晴らしいかを語りだした。

そんなとき、ユキはいつも(まるで子供が遊び飽きたおもちゃを見るみたいに)心底どうでもいいという表情で僕を見た。 

そうして結局、僕は休日の昼下がりに、青山や表参道のお洒落カフェで、研究の進捗報告をさせられた。

ユキはとにかく遠慮がなく、ときには僕の専門外のことまで、気になることは全部聞いてきた。

そんなことまで知らないよ、とは言えなかった僕は、自分の小さなプライドを守るために、

「それはまぁ、こうだよ」

と適当なことを自信ありげに言った。

そして、たまにそれが間違ってるとユキにバレて、

「知ったかぶりしないで」

と冷たい目で言われるたびに、僕のプライドは粉々にくだけ散っていった。

 

 

そんな日々が続くと、僕はユキに研究の話をするのがだんだん楽しみになっていった。(別になじられたいわけではなく)

 

新しい結果が出たり出なかったりするたびに、「これ何て言えばユキに伝わるかな」と考えることが増えた。

いい結果が出そうな時は、ユキにいい顔がしたくて明け方まで研究室で作業することも多くなった。

 

ある日、ユキが僕の大学に行ってみたいと言うので、仕事の後に大学で待ち合わせた。

夕暮れのキャンパスを二人で歩きながら、

「そういえば実験うまくいったよ。今論文書いてる」

と僕はなんでもないような顔をして言った。

 

「えっ、何?うまくいったの?うそ、すごい」

とユキは大きな目で僕を見て言った。

その顔を、僕は今も忘れられないでいる。

 

***

 

そんな日々を半年ほど過ごして、僕たちは別れた。

僕の論文投稿や学会発表が重なって、ユキと会えない時間が1ヶ月以上続いたからだ。

 

ある日ユキから、

「これ以上会えないなら、お別れすることも考えましょう」

とメールが届いた。

僕は、そんな簡単に別れるとか言うんだ、と思って悲しくなって、

「わかった、別れよう」

と返事をした。

 

それで終わりだった。

 

今ならもっといろんなやり方があって、たぶん別れなくてもよかったと思う。

でもあのときの僕は、お洒落なレストランもろくに知らないような大学院生で、彼女は皆が見るような美人で、僕にはどうすることもできなかった。

  

彼女がいなくなって、前と同じようにアパートと大学を往復する毎日が僕に戻ってきた。

 

そして僕は、研究で結果が出たとき、それを伝えたい相手がいないことに気がついた。 

前の僕は自分の好奇心のために研究をしていたから、結果が分かればそれで満足だったけれど、もう僕には彼女が聞いてくれることも、僕が研究をする理由になっていた。

そんな気持ちを最初に教えてくれたのは彼女だった。

 

 

あれから今日まで、僕はたくさんの学会や研究会に参加して、多くの人に出会った。

毎日研究していると、「この結論じゃ、あの先生は物足りないっていうだろうな」とか、「この結果は〇〇君が喜びそうだな」とか、いろんな人たちの顔が浮かぶ。

そんなとき僕は、なんだかいつもより余計に頑張って研究ができたりする。

もしずっと自分の好奇心のためだけに研究していたら、今の僕はいないな。

 

 

ふと気がつくと、いつの間にかあの学生カップルはどこかへ行ってしまっていた。

すっかり暗くなった夜のキャンパスはそれでもどこか暖かくて、春が来たんだと僕は思った。

 

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