いい大学に入るために「自分の頭で考えること」をやめた
振り返ってみれば、高校を卒業する頃、僕は「自分の頭で考える」ということをすっかりやめてしまっていたように思う。
良い(偏差値の高い)大学に入学するためには、自分の個性的な意見というものは邪魔でしかなかった。
試験問題にはいつも誰かが用意した答えがあって、僕たちは「いかに早くその答えを見つけられるか」を競っていた。
センター試験の選択問題なんてまさにそうだ。
二次試験の記述問題や小論文にも答えの型があって、その型を知っていて、かつ早く見つけられた人が合格する。
「自分で考える必要はない」
そう気がついてからは、人生が楽になったような気がした。
どんな問題にも答えがすでに用意されている。
それを探し出せばいいだけだ、と思った。
できるだけ、偏差値の高い大学に入って、時給の高いアルバイトをし、雑誌に載ってる服を着て、食べログの評価の高い店で食事をする。
スマホはiPhoneで、スニーカーはnew balanceで、リュックは黒で、ジーンズはスキニーで、夏は海に行って、冬はスノボに行く。
(そういう大学生、僕は大好きです)
そんなふうに、正解はネットで検索すればすぐに見つかった。
もはや人生に悩む必要などなく、そのうち気がつけばいつも友達に囲まれるようになって、彼女と同棲して、先生方からも一目置かれるようになる、はずだった。
しかし大学をあと1年で卒業するという頃から、がぜん雲行きがあやしくなってきた。
僕が研究室に配属された頃である。
友達とはむしろ距離を感じる気がしてきて、彼女と同棲などしていなかったけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。忘れさせてほしい。
なにより問題だったのは、先生が僕の意見を聞き始めたことだ。
たとえば、先生に「これについて森野くんはどう思う?」と聞かれる。
そこで僕は「〜だと、論文に書いてありました」と得意げに答える。
しかし、そこで先生は「うん、その論文の意見に対して、森野くんはどう思う?」と、あくまで僕の考えを聞いてきた。
人の意見を引用するのはかまわないけれど、それを自分の意見だとするのは研究としては何の価値もなく、下手すると剽窃というルール違反になるらしい。
自分の頭で考えないといけない。
「あれ? なんかルールが変わってきてるぞ」と、そのとき僕は感じていた。
「自分の頭で考える」とは具体的にどうすればいいのか?
それから、僕は「自分の頭で考える」にはどうすればいいかを学んだ。
たとえばある本に、こんな話が書いてあった。
イギリスの中学生の宿題
ロンドンに住む日本人の父娘がいた。
娘は日本人学校ではなく、現地の学校に通っていた。
ある日、娘が父に宿題の相談をした。
ふだん忙しくて娘にかまってやれなかった父は喜んで相談にのった。
娘の宿題は次のようなものだった。
「以下の3つを読むにあたって、どういう点に気をつければよいか答えなさい。
- 中世に、ある地方の裕福な農家へ嫁いだ女性が書いた日記
- 当時、その農村を仕切っていた地主の執事が書いた記録
- のちに、その時代の農村を調べた大学教授の論文 」
父はあまりの難しさに内心ひっくり返ってしまった。
そして苦し紛れに娘に聞いた。
「おまえはどう考えているんだ?」
すると娘はこう答えた。
「1には嘘がないと思う。村で起こったことがありのままに書かれているだろう。でも、自動車も電話もない時代だから、自分の目で見える狭い範囲のことにとどまっていると思う。
2はおそらく年貢を多く取りたいという気持ちが働いているだろうから、作物の収穫量を加減している可能性がある。
3は客観的なように見えても、どこかで自分の学説に都合のいいように脚色されている恐れがある。
このように答えようかと思っているんだけれど、おとうさん、どうかな?」
父は「まあ、それでいいじゃないか」と答えつつ、「イギリスの教育はすごい!」と舌を巻いた。
(参考『人生を面白くする 本物の教養 (幻冬舎新書)』出口治明)
この中学生の宿題は、自分の頭で考えるにはどうすればいいかを教えてくれる、良い問題だと思う。
まず、「どういう点に気をつければよいか?」と聞いているので、答えは「〜という点に気をつければよいと私は考える」という主張になる。
あとは、その主張を「〜だから」という根拠から導けばいい。
その根拠となるのが情報である。
たとえば1の日記については、「中世」「地方」「農家」といったキーワードで検索して、ヒットした別の文献から当時の情報を得て、根拠にすることになる。(自動車や電話がなかった、とか)
ここで、この問題の面白いところは「文献を読むときに気をつけること」を考えさせている点である。
宿題をする中学生は、「中世」の情報を得ようと他の文献を探すわけだけど、そのとき見つけた文献を読むときにも、「何か気をつけることがあるんじゃないか」と考えることになる。
「自動車や電話がなかった、と書いてあるけど本当だろうか?」と。
そしてそれを確かめるために、さらに別の文献をあたるという、ともすれば無限ループに近い作業をするはめになる。
そしていつか、「時間は限られている。すべての文献を読むことはできない。どの情報をどこまで信じるかは、自分で判断するしかない」ということに気がつく。
そうして作った「自分の判断基準」にしたがって根拠をそろえ、主張を述べることが、自分の頭で考えることだと、理解することになる。
どうして「自分の頭で考える」必要があるのか?
上と似たような状況は、研究をしているとよく起こる。
それを考えると、どうして「自分の頭で考える」ことが研究に必要なのかがわかる。
自分の頭で考えることができなければ、誰かが見つけた情報の中を永遠にさまようことしかできず、自分で新しい何かを見つけることができない。
「自分の頭で考える」ことは、新しい発見をするために不可欠なのである。
大学院生にもなると、情報を得ることよりも考えることに意味がある。本や論文で気になるところがあったら読むのを止めて考える。すると新しい情報が知ってることとつながって知識になる。いつか自分で新しい問題を見つけたときに、広くつながった知識を持ってるといろんなアプローチができる。
— 森野キートス (@ki1tos) 2019年4月22日
自分の頭で考えることは楽なことではない。
情報を一つ一つ精査して、自分が納得するまでいろんな角度から検討する必要がある。
最初は、とても長い時間がかかるかもしれない。
最近は、先生方がすごく忙しいから、学生が自分の考えをまとめるまで待ってはくれないことも多いだろう。
そんなときに、「もう少し自分で考えさせてください」と言ってみることを、僕はおすすめしたい。
すぐに知識を仕入れるよりも、自分で考える力をつける方が研究者になるために大切なことだと思う。
それに、自分の力で頑張ろうとする人には、きっと周りの人も協力してくれるんじゃないだろうか。