やる気が出ない。
平日の昼過ぎ、僕は研究室でぼんやりとパソコンの画面を眺めている。
「やるきがでない」と打ちこんで検索してみると、「やる気が出たから行動するのではない。行動するからやる気が出るのだ」という言葉が出てきた。なるほど?
僕はしかたなく書きかけの論文ファイルを開き、数行文章のようなものを書いてみた。
書いた文を読んでみたが、どうも違う気がする。
これを先生に見せても、たぶん全部ボツになるだろう。
そう思って書いた文を消した。
このまま続けてもたぶん、書いては消し、書いては消し、のループにおちいるだろう。
そうやって何も残らないけどなんか頑張った気はするという、不毛な数時間を過ごすんだ。
実はこれまで何回もそんなことをやってきたから知っている。
できないときはできないのだ。
研究室の窓からはきれいに晴れた空が見える。
きっと外は気持ちの良い秋の風が吹いているのだろう。
いっぽう僕は蛍光灯の下、生ぬるい空気の中で何をしているのだろうか。
僕はこうやってここでずっとパソコンをカタカタやりながら年老いていくのだろうか。
人生とは何だ。
そんなことを考え出したので、僕は気分転換に大学の周りを歩くことにした。
平日の昼間、街は閑散としている。
誰もいない公園、風に揺れる街路樹、道の真ん中を歩いている鳩。
どこかから子どもの声が聞こえ、川の水面を鳥が泳いでいて、空には雲が浮かんでいる。
あぁ、もう毎日ただ散歩だけして生きていけたらなぁ、と思う。
ダメ人間である。
もういい大人になったというのに、僕は大学生の頃からなにも変わっていない。
だけど不思議とそんな自分がまんざらでもないので、余計たちが悪い。
こんなダメなヤツなかなかいないだろうなぁ、と思って歩いていると、商店街のカルディコーヒーファームに助教さんがいた。
「おぉ、モリノくん。買い物?」と助教のタナカさんが言う。
「散歩です」と僕は答える。
「あぁ、今日はいい天気だからね」とタナカさんは空をみて目を細めた。
タナカさんと一緒に研究室へ戻りながら、
「どうも論文書くのが進まなくて」と僕は相談してみた。
「やる気が出ないっていうこと?」
「はい」
「人はゴールが具体的なほどやる気が出るって、新聞に書いてたよ」
「ゴールですか」
「うん。論文のゴールってなんだろうね?」とタナカさんが言った。
「アクセプトされることじゃないですか」と僕は言う。
「それで終わり? そのあとは?」
「誰かが読んでくれるといいですね」
「うん、もっとあとは? たとえば10年後とか」
「論文の10年後? 引用されるとか?」
「うん、誰がモリノくんの論文を引用するんだろうね?」
「うーん、うちの研究室の後輩とかですかね」
「うん。たぶんうちの学生がモリノくんの論文を一生懸命読むよ。引用するときってすごく真剣に読むからね。その子が論文の内容がわからないって困ってたらどうする?」
「いやぁ、それはぜひ説明したいですね」と僕は言う。
「だよね。いま論文に書けば説明できるよ」とタナカさんは言った。
「モリノくん、昔ね、先生が論文のゴールは誰かにちゃんと読んでもらうことだって言ってたよ。だから誰が読んでくれるか具体的に想像してみたらやる気が出るかもね。そういえば論文いっぱい書いてる人って、エディターが誰で、レビューアーが誰で、この論文に興味ありそうなのは誰か、みたいな話をよくしてるよね」
「たしかに」
「たぶんああいうのが論文書く原動力になるんだよ。まぁ学会とかで顔合わせてるから知ってるんだろうけど」
「なるほど」
「まだあんまりそういう人達を知らないうちは、未来の後輩を想像したらいいんじゃない? モリノくんの場合は、可愛い女の子にするともっとやる気が出るかもしれんよ」
「やめてくださいよ」と言いながら、僕は未来の可愛い後輩が論文を読んでくれてるところを想像してみた。
もし彼女が僕の論文を読んでよかったと思ってくれるのなら、研究室でパソコンをカタカタする人生も悪くないかもしない、と思った。
チョロいな僕は。
書くという行為は自慰行為ではありません。書くという行為は、私たちの目のまえにある世界、私たちを取り巻く世界、今、ここにある世界の外へ外へと、私たちの言葉を届かせることです。それは、見知らぬ未来、見知らぬ空間へと、私たちの言葉を届かせ、そうすることによって、遇ったこともなければ、遇うこともないであろう、私たちのほんとうの読者、すなわち、私たちの魂の同胞に、私たちの言葉を共有してもらうようにすることです。
唯一、書かれた言葉のみがこの世の諸々の壁──時間、空間、性、人種、年齢、文化、階級などの壁を、やすやすと、しかも完璧に乗り越えることができます。
水村美苗『増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)』p.108より