いつか博士になる人へ

あるポスドク研究員の思い出

論文の数や雑誌を言わなくたっていつか伝わること

そのスライドが映された時、会場から拍手が起こった。

僕の隣にいた先生が、すばらしい、とつぶやいた。 

 

とても綺麗なデータだと、僕は思った。

だけどそんなにすごいものだろうかと、不思議にも思った。

 

***

 

僕が大学4年生だった時、学内で開催されたシンポジウムに参加した。

風が気持ちいい秋の日で、坂の上のキャンパスから麓の工学部の講堂まで、僕は先生と一緒に歩いていった。

 

長い坂道を下る途中で、先生が急に林の中に入っていった。

あわててついていくと、そこに古い石の階段があった。

「近道」

と先生は笑って言った。

先生にも子供みたいな所があるんだなと僕は驚いた。

 

会場はまるでコンサートホールみたいな所だった。

広いステージ、オレンジ色の照明、階段状に並んだ座席。

中ほどに空席を見つけて、僕たちは座った。

最初にステージに上がったのは学生みたいに若くて、落ち着いた話し方をする人だった。

 

その人があるグラフを見せたとき、会場がざわついた。

 

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「このように、この性質は約5時間周期で振動していることがわかりました。その振幅は時間が経過してもほとんど減衰しません」

わかりやすい説明だった。

そのとき、会場から拍手が起こった。

そんなことは初めてだったので驚いた。

つられて拍手をしながら、そんなにすごいことなんだろうかと僕は思っていた。

何か大事なことを見逃しているような、そんな気がした。

 

シンポジウムが終わり、研究室への帰り道で、僕は先生に聞いてみた。

「最初の講演は、そんなにすごかったんでしょうか?」

「うん?森野くんはどう思った?」

「そうですね…とても綺麗なデータだと思いました。説明もわかりやすかったですし」

「そうだね。いいデータだった」

「でもなんだか、その、当たり前のようにも思えました。あれはそんなにびっくりするようなことなんでしょうか?」

「当たり前か。ふふふ、なるほど。でもそこまでやったかと思ったね」

「?」

「森野くんなら、あのデータを取れると思う?」

「…はい」

「それは頼もしい」

それきり先生は何も言わなくて、話はそこで終わった。

 

***

 

そのことを思い出したのは、東京にきて1年がたった頃だった。

そのとき僕はある反応の時間変化を調べていて、1時間ごとにデータをとることを朝から晩まで繰り返していた。

再現性をみたり、条件を変えたりして、何週間もその実験だけをやる毎日だった。

失敗することもあって、そんな日は明日も失敗したらどうしようと不安になった。

そのうち、うまくできた日までこれで本当に論文が書けるんだろうかと不安になっていた。

 

なんとか取り終えたデータを見て、先生は言った。

 

「もう少し長い時間、データが取れるといいですね」

 

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その日、僕は渋谷のドンキホーテに寝袋を買いに行った。

夜、実験室の椅子を並べてその上で眠ろうと頑張っていると、助教の先生が様子を見に来た。

「どう?」

「眠れません」

「ははは。床で寝た方が楽だよ。そういえばマットがあったと思う。佐藤くんが使ってたやつ」

「ほんとですか?助かります」

 

僕はよごれたマットを手に入れた。

 

「佐藤くんもよくそうやって寝てたよ」

と助教さんが言う。

「先生に24時間のデータとれって言われてさ」

「…気持ちがよくわかります」と僕は言う。

「ははは。でもそれでね、彼は勝手に48時間のデータを取ったよ」

「えっ?」

「最後はゾンビみたいになってたけどね。でもあれはいい仕事になった。そこまでやるかって皆思ったんだよね」

「48時間は…たぶん僕死にますね」

「ははは。やれって言ってるわけじゃないよ。24時間でも十分大変だと思う。でもその大変さはデータみせたら伝わるから。きっといい仕事になると思う」

そう言われて僕は、昔先生が言ってたことを思い出した。

 

『そこまでやったかと思ったね』

 

あのときシンポジウムで見たデータ。

その実験方法とデータ数から、どれほどの労力が必要だったのか、そのとき僕は想像できた。

それはきっと気が遠くなるような作業だったと思う。

あのデータがどの雑誌に載ったかとか、あの人の論文数がどれだけとか、僕は今も知らないけれど、そのとき僕はあの人を心からすごいと思った。

 

結局、その夜はまったく眠れなかった。

朝ごはんを買いに出ると、目が痛いくらい青い空が街路樹の上に広がっていた。

誰もいない構内を歩きながら、あの人もこんなふうに朝のキャンパスを一人で歩いたんだろうかと考えた。

そう思うと、なんだか僕ももう少し頑張れそうな気がした。

僕は少し嬉しくなって、ニヤニヤしながら裏門のコンビニへと急いだ。

 

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