いつか博士になる人へ

あるポスドク研究員の思い出

誰かの論文を読むとき、自分が研究者に向いているかわかる

科学論文を読むということをどれくらいの人がするのだろうか。

 

本屋でたまたま手に取った本をみていると、ふとそう思った。

アメリカ人の医師が書いたというその食事に関する本には(まるで僕らが普段目にする専門書みたいに)10ページ近い参考文献リストがついていた。

情報は科学的な証拠に基づいて(evidence based)伝えられるべきだ、という考え方が欧米では流行っているらしい。

新宿の紀伊国屋で山積みされているような本に、長い英語論文のリストがついていることは、なんだかとても新鮮だった。

この本を買っていく人たちは、本の中に気になるところを見つけたら、引用元の論文をみてその情報が信じられるかどうか考えたりするんだろうか。

 

もしそんな人がいるんだとしたら、それはなんだかとてもいいことのような気がした。

科学論文が、研究者以外の人たちにとってもっと身近なものになる。

 

例えばたまに行くパン屋のおねいさんが、僕の論文を読んでくれたりして。

 

「森野さん、あの論文読みましたよ。あいかわらず分析のやり方があまいですね

「ひぃ、すいません。精進します」

 

なんてやりとりができたら、それはとても素敵じゃないだろうか。

 

f:id:kitos:20190306234724p:plain


(僕の趣味嗜好についての疑惑はさておき、)

 

科学論文、特に英語の論文を読むことは簡単じゃない。

それができること自体が一つの特別なスキルだと思う。

だけど、優れた情報の価値がどんどん上がっていく世界で、新しい画期的な研究成果がまず間違いなく英語論文として発信されることを考えると、その情報をダイレクトに受け取れるかどうかで、人生は変わる。

 

もし「論文を読んでみたい」「読めるようになりたい」と思ったら、どうかその気持ちを大切にしてほしいと思う。

昔そう思えたおかげで僕は、大切なことをたくさん知ることができた。

 

初めて読んだ論文が教えてくれたこと

初めて英語の論文をまともに読んだのは、大学4年生の時だった。

ぼくは研究室でわくわくしながら、ある論文を印刷した。

 

その日の午前中、東大の先生が僕の大学に講演をしにきていた。

その先生の研究は、僕にはとても面白かった。

講演の後で勇気を振り絞って質問しに行って、紹介してもらった論文だった。

 

僕は印刷された論文をホッチキスでとめて、インスタントコーヒーを淹れた。

研究室の窓際にある共用のソファーに座って、僕は論文を読みはじめた。

研究室の先輩がよくそうやって論文を読んでいたので、マネしてみたのだ。

気分は福山雅治(ガリレオ)だ。ノリノリである。

 

しかしコーヒーを半分くらい飲んだところでぼくは思った。

 

f:id:kitos:20190309175828p:plain

 

さっぱりわからない。いやマジで。

 

とにかく知らない単語が多すぎる。

僕はすごすごと自分のデスクに戻り、英辞郎先生に単語の意味をひとつひとつ聞いていった。

 

30分ほどかけて、最初の1ページの単語を調べ終わった。

数えてみると、まだあと10ページくらいあった。

絶望である。読むのやめようかなぁ。

 

しかしその論文には、ぼくの卒業研究がかかっていた。

やっと見つけたやりたい研究。その情報がそこに書いてあるはずだった。

 

結局、それから1ヶ月くらい、ぼくはこの論文と格闘し続けた。

英単語の意味を全部調べた後、使われている実験手法について本を読んだり、先行研究の論文を読んだり、指導教員の先生に相談したりしていると、時間はあっという間に過ぎていった。

印刷した論文は最後には書き込みでいっぱいで、白いところがほとんどなくなっていた。

 

この論文は、まだ何も知らない僕に、何を学べばいいかを教えてくれた。

研究がしたいとは思っても、どうすればいいか全くわからなかった僕に、まるで夜道を照らす街灯のように、進むべき方向を教えてくれた。 

 

 

論文を読むとき、自分が学問に向いているかわかる

マックス・ウェーバー先生はかつてこう言った。

学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。

実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家的になしとげられたものばかりである。

それゆえ、いわばみずからめかくしを着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。
職業としての学問 (岩波文庫) p.22)

 

「論文を読むことが研究者にとってどういう意味を持つのか」について僕が言いたいことは、結局この言葉にほとんど集約されている。

論文は、その単語の一つ一つにまで、著者のメッセージが込められている。

例えば、theの有り無しや、thatと,whichの違いだけで、文の意味が大きく変わる(参考:トム・ガリー先生の解説)。 

著者が伝えたいことの全ては論文に書いてあるけれど、それをきちんと受け取るためには、持てる知識を全部使って、それでもわからないときは思いつく限りの方法で調べて、著者の思考をトレースすることに全神経を集中させることを、最初はとても長い時間続ける必要がある。

 

そんな風に論文を夢中で読めるかどうかで、研究者に向いているかどうかがわかるというのは、たしかにその通りだと思う。

かつてニュートン先生が言ったように、僕たちは巨人の肩の上に乗るからこそ、これまで見えなかったものが見えるようになるからだ。

論文をきちんと読むことができるかは、巨人の肩まで登れるかどうかを意味する。

 

ただし、どんな論文でも夢中になって読めないといけないというわけではない。

むしろ、夢中で読める論文が一つでもあったなら研究者に向いているかもしれないということである。

論文は情報伝達の手段であって、コミュニケーションだ。

夢中で読んでしまうような研究論文に、どうか多くの人が出会ってくれればいいなと思う。

 

とある論文を読んだ日のこと

大学院に入ってしばらくたったある日、僕はある論文をプリントアウトした。

晴れた日の朝に、まだ誰もいない談話室でコーヒーを飲みながら論文を読むことが、その頃の僕はとても好きだった。

自分の研究に近い内容の論文なら、もう英辞郎先生に頼らなくてもだいたい読めるようになっていた。

その日選んだ論文は4ページくらいの短いものだったから、たぶん30分くらいで一通り読めるだろうと思っていた。

 

だけど、その半分くらいの時間で読み終わってしまった。

その論文が結局「こういう化学反応がある」ということしか報告していなかったからだ。

「たしかに便利な反応だけど…えっ、これだけ?」

と、僕は思った。

 

その瞬間、 背筋が凍るような感覚がした。

 

「本当に素晴らしい発見には、細かい説明も長い議論も必要ない」

いつか先生がそう言っていたことを思い出した。

 

その頃の僕は、NatureやScienceといったハイ・インパクトジャーナルに論文を載せるには、100の実験と水も漏らさぬ完璧な論理が必要だと思っていた。

ワトソンとクリックの論文みたいに、1ページで世界を変えるような論文は正直旧時代の産物であり、いろんなことがすでに解明された今の時代にはありえないと思っていた。

 

だけどその時僕が手にしていた論文は、大学院1年目で日本人の僕でさえ15分で内容がわかるようなもので、

そのシンプルな化学反応に今まで世界の誰も気がつかなかったことに驚いた。

 

そしてその論文は公開されたばかりだったから、世界中のいろんな所できっと僕と同じように驚いている人たちがいるんだろうなと思うと、

なんだか興奮して、いてもたってもいられなくなって、僕はこの論文のことを研究室のみんなにメールしようと思って立ち上がった。

 

マグカップを手に取ると中になみなみとコーヒーが残っていて、僕はこの論文を夢中で読んでいたことに気がついた。