地上一万メートルの上空で、そのときぼくは恋をしていた
サンフランシスコ行きの飛行機の中で、ぼくは隣に座っている女の子と今観たばかりの映画について話をしていた。
こんなことを書くと、日頃モテなさすぎてついに妄想の世界の住人になったかと思われそうだけど、ぼくは正気だ(と思う。まだ今のところは)
数時間前、ぼくはアメリカで開かれる国際会議に向かうため、羽田空港にいた。
一緒に行くラボのメンバーは4人。
ぼくと先輩と後輩と、あと先生。
搭乗時間がきて、サンフランシスコに向かう飛行機の機内に入った。
長時間のフライトでずっと隣にいるのはお互いしんどいという価値観を共有した僕たちは、通路にそって縦並びに座っていた。
「シートについてるディスプレイで、機内通信ゲームができるらしいからやろうよ」
「チェスのルールとかよく知らないんですけど」
「テトリスやりましょうよ」
そんなことを話しながら、ぼくたちはこれから海外に行く高揚感でいっぱいだった。
機内で見れる映画のパンフレットを眺めていると、大学生くらいの女の子が反対側の通路から入ってきて、ぼくの隣に座った。
きれいな子だった。
一瞬目があって、どきっとした。
ぼくらが乗ったのは夜の便で、機内食を食べたあと、わりとすぐ機内の灯りが消された。
ペンライトを持ったCAのおねいさんがきて、水を配ってくれた。
きっとエコノミークラス症候群防止のためなんだろうな。
それからしばらく映画をみていると、隣の女の子がコップを倒した。
少し残ってた水がぼくの足にかかった。
女の子「あっ、ごめんなさい!」
ぼく「あっ、いや、ぜんぜん、大丈夫でしゅ」
ぼくはかんだけれど、それでもその子はあわててポーチみたいなやつからティッシュを出して、一生懸命ぼくのズボンをふいてくれた。
女の子「本当に…ごめんなさい」
顔が近かった。
ぼく「(…すきだ)」
ことわっておくが、ふだん女の子とあまり接点のない大学院生男子なんてこんなもんだ。すーぐ好きになる。
女の子「あの…どうしよう…」
ぼく「ほんとに全然大丈夫ですよ。あ、その映画おもしろいですよね」
とぼくはその子がモニターで観てた映画の話をふった。
女の子「あ…はい。おもしろいですよね、これ」
と笑ってくれた。かわいかった。
それからぼくたちは小さな声で少し話をした。
好きな映画のことや、この旅の目的とか、ふだんは何してるかとか、東京のどのへんに住んでるかとか。
そのあと、ぼくは彼女がおもしろいとすすめてくれた別の映画を観ることにした。
彼女は「私は寝ようかな。あまり寝れそうにないですけど」と笑って、ぼくに「おやすみなさい」と言った。
ぼくも彼女に「おやすみなさい」と言った。
ぼくは完全に恋をしていた。
数時間後、機内の灯りがついて、軽食が配られた。
「やっぱりあんまり眠れなかったです」
「ぼくも。あ、あの映画最後泣けました」
とか言いながら食べた冷たいパンが、なんかおいしかった。
それから1時間くらいで、飛行機はサンフランシスコの空港に着陸した。
「つきましたね」
そう言った彼女にぼくが言ったのは、
「そうですね。じゃあ、お互い楽しい旅になるといいですね」
だった。
彼女は「え…あっ、そうですね」と言った。
「では」
そう言ってぼくは前に座ってた先輩に「乗り変えまで3時間でしたっけ」とかなんとかどうでもいいことを言いながら、飛行機を降りた。
荷物を受けとるベルトコンベアのところで彼女を見かけたけど、目が合うことはなかった。
こうしてぼくの恋は9時間15分で終わった。
連絡先を、聞こうとは思ってた。
でも断られるのが怖くて聞けなかった。
吉祥寺のハンモックカフェの話をしてるとき、今度一緒にいきましょうって言おうとは思った。
でも楽しい雰囲気がこわれるかもって思って言えなかった。
せめて名前くらい聞けばよかったのに、怖がられるかもって思って聞けなかった。
でも最後にあんな顔させるくらいだったら、嫌われてもいいから、「東京に戻ったらご飯でもいきませんか」って言うべきだったんだ。
ぼくは誠実なふりして、ただヘタレなだけだった。
そんなことをウジウジ考えてると、ぼくのポスターバズーカがベルトコンベアに乗って出てきた。
そこでぼくは気がついた。
「あっ、発表の準備やってねぇ」