もし知っていたらダメな研究計画書を書かずに済んだこと

「研究計画書を書いたので見てもらえませんか?」

と学生からメッセージが届いた。

添付されていたそれを読んでいると、僕が研究計画書を初めて書いた頃のことを思い出した。

今からもう7年くらい前のことだった。

 

あの時、僕はどうにかして採用される計画書を書こうと必死だった。

学振に採用された友達に頭を下げて計画書を見せてもらったり、書き方についての本を何冊も読んだりした。

ネットで何時間も検索して、計画書の書き方を丁寧に説明してくれているサイトをいくつも見つけて喜んだ。

なかには文字のフォントやサイズ、行間の幅まで教えてくれたり、実際に採用された申請書が公開されているものもあった。

おかげで僕は自信を持って計画書を書くことができた。

 

ほぼ完璧だと思っていたけれど、一応助教の先生に計画書を見てもらった。

そして言われた言葉は、

「うん、すごく読みやすいけど全然ダメだね」

だった。

 

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先生は書き方うんぬんの前に、研究計画書を書くために知っておくべきことをいくつか教えてくれた。 

そして今、学生の計画書を見て僕はあの時の先生と同じことを思っている。

僕が彼に伝えたいことを忘れないようにここに書いておきたい。

 

 

申請分野を選ぶのはわりと大変

はじめに知っておくべきことは、研究そのものを評価することは専門家でもとても難しいということ。

これについては数学の藤原正彦先生の言葉がわかりやすい。

数学の中でさえ専門の細分深化してしまった現在では公平な評価がきわめて困難である。微分幾何学者が確率論の論文を前にして、あるいは有限群論の専門家が偏微分方程式の論文を前にして感ずることは、その数学者が古代ギリシャ語、又はサンスクリット語で書かれた詩文を前にした時と大差ないであろう。従って分野の異なる人々を比較評価するのはすこぶる難しい。

若き数学者のアメリカ (新潮文庫) p.228

研究対象が広く深くなった現代では、たとえ優れた研究者であっても、研究分野が少し違えばその内容はほとんどわからなくなる。

他分野の研究は、内容の評価が難しいのではなく、内容そのものがわからない。

だからまず第一歩として、研究計画書に書いたことを理解してもらうだけでも、自分の専門と限りなく近い研究者に評価してもらう必要がある。

研究計画書を申請する分野の選択で、計画書を読んでもらえるかどうかが決まる。

過去の審査員は誰かとか、直近の採用者はどんな研究をしているかなどを調べて、自分の研究とマッチしているか、あるいはマッチするように書けるかどうか真剣に考えるところから始めるといい。

 

 

研究内容の質は評価されない

自分の専門に近い申請分野を選べて初めて、研究計画書が評価の対象になる。

そこで知っておくべきことは、研究自体の質を評価されるわけではないということ。

評価するのに、その人と専門の近い人たちに意見を聞いてみる手があるが、これもあまり信頼できる方法ではない。専門の同じ同僚というのは互いに一種特異な感情関係にあって、とかく好意的すぎたり、批判的すぎたりして公正な意見を期待できないからだ。そして公平な評価に対する、より本質的な障害は、論文の価値判断というものにはどうしても評価する人の思想、哲学、趣味等の主観が入ってしまうということである。

若き数学者のアメリカ (新潮文庫) pp.228 

研究内容が理解されたとしても、「質の高い研究」がどんなものかは人それぞれ違うから、研究の質を公平に評価することはできない。

だから、研究計画書を公平に評価するために、研究内容の質は最初から評価されないことになる。

 

これは国語のテストに似ている。

例えば、ある物語を読んで「主人公の気持ちを答えなさい」という問題。

普通に考えると主人公の気持ちなんて誰にもわからない。

だから素直な人は「悲しかった(と私は思う)」とか「怒った(と私は思う)」とかがんばって想像して答える。

そんな答えが正しいか間違ってるかなんて採点者もわからないから、そういう回答は評価しないでとりあえず0点にするのが公平な評価になる。

 

研究計画書の場合も同じで、例えば学振の研究計画書には「これまでの研究の独創的な点について記述してください」というものがある。

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この問題に、「〇〇の点が独創的である(と私は思う)」みたいな書き方をすると、評価しようがないから0点になる。

 

 

研究費計画書で評価されるのは要求に正しく答える力

「主人公の気持ちを答えなさい」という問題に正解する方法は、「(作者が)主人公の気持ち(だとして書いている文)を答えなさい」と読み替えること。

この問題で試されているのは、主人公に対する共感力や想像力ではなくて、この問題の読み替えができる国語力()があるかどうか。

 

「これまでの研究の独創的な点について記述してください」の場合も同じ。

「当該分野の重要文献を挙げて」とヒントが書いてあるように、「これまでの研究の独創的な点について(当該分野の重要文献に書いてあることを)記述してください」という問いに読み替えればいい。

だから「この研究は〇〇な点で独創的である(と文献1に書いてある)[文献1]」みたいに書けばいい。

自分の考えや意見を書かず、重要文献をたくさん紹介すること。

どれだけ文献を読んだかが試される。

 

もう一つ例をあげると、「研究内容について記述してください」の場合。

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ここのポイントは「わかりやすく記述してください」のところ。

例えば審査員が3人いたら、3人ともがこれはわかりやすいと思うように書かないといけない。

「目的は〇〇である」の部分の色を変えて太字にするとか線を引くとか、誰が見ても目的・方法・内容が明示されていると思うように、とにかくわかりやすく工夫する。

逆にそれ以外の余計なところは強調したりしないこと。

 

そして図と表。

「文章を読まなくても、図表をみれば目的・方法・内容がわかる」というのが結局一番わかりやすい。

先生方が書いた科研費の申請書を見せてもらうと、いつも研究が一枚の絵でうまく表現されている。

そういう図を作るのは難しいけれど、もしできたら研究の全体像が具体的に見えていることを一目で伝えられるから、時間をかけて作ってみる価値はあると思う。

 

 

業績は裏切らない

これまで書いたことは知っていれば済むことだから、あとは論文数や発表数といった業績の勝負になる。

どうして質じゃなくて数が大事なのか。

万人の認めるような大論文ならいざ知らず、ほとんどの論文に関してはこのように客観的な評価が得られにくい。しかも中には、かなりの年月を経ないと重要性の明らかにならないものもあったりする。そこで勢い、論文の質より量に目を転ずることになる。極端に言うと、十編の論文を持っているものは五編しか持っていないも人の二倍の仕事をした、または二倍の能力があると見なすのである。屑籠へ直行するような十編の論文よりは、珠玉の一編の方が遥かに価値があることは自明なのであるが、既に述べたように、珠玉か否かを見極める効果的方法がないのである。この”質より量”が、実に世界的な規模で全学界に蔓延しつつある悪疫の元凶となっている。

若き数学者のアメリカ (新潮文庫) p.229

数が重視されることが良いか悪いかは僕にはわからないけれど、少なくとも「業績は裏切らない」ことは知っておくべきだと思う。

逆にどれだけ一生懸命計画書を書いたところで、業績が少ないと逆転するのは難しい。

研究計画書が採用されるために一番大事なことは、結局業績だというのは現実だと思う。

これまで書いたことは、業績の少なさをカバーするためのものではなくて、むしろ業績があるのに評価を低くしないためのものだ。

 

だけど、業績を積むことに一生懸命になってると研究が楽しくなくなる、みたいな人もいると思う。僕もそうだった。

そんな人は業績勝負になりにくい状況を狙えばいい。(学振以外に出すとか)

競争に勝つよりも競争自体を避けるのはとてもいい戦略だと僕は思う。

 

***

 

ここに書いたようなことを学生に話すと、

「森野さん、すごいですね。なんか。アハハ」

と、褒められているのかどうかイマイチわからないコメントをもらった。

「ありがとうございました」

そう言ってデスクに戻っていく彼に僕は

「頑張って」

と声をかけた。

僕のパソコンのディスプレイには、彼の研究計画書が表示されている。

自己評価の欄に、彼がどれだけ研究者に向いているかとか、研究者になりたい熱意は誰にも負けないということが、枠いっぱいに書かれている。

よくこんなに書けるなぁと思いながら、僕は自分も負けてられないなという気持ちになって、どっちが励まされているのかわからなくなった。